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一所不住



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やるまいぞやるまいぞ

「狂言は室町時代の吉本新喜劇です」とは、茂山家の面々が「狂言」をわかりやすく説明するときに使う常套句だ。わかりやす過ぎて、初心者でも簡単に垣根を越えて入っていける。

室町時代は外国との交易も盛んになり、公家中心だった文化に対して、新しい町衆文化の台頭があった。権力者となった新興の武家も文化を嗜むようになり、さまざまな芸術・芸能が勃興した。
それは「室町ルネッサンス」と呼ばれ、普遍的な美意識が形成され花開いた時代であった。

7世紀ごろ中国大陸から伝わったとされる「伎楽」や奈良時代の「散楽」が平安時代に「猿楽」となり、室町時代には足利義満に庇護された観阿弥、世阿弥親子が今日ある能楽を完成させた。
そして「猿楽」の道化部分、お笑い担当の台詞劇が「狂言」となった。

と、まぁ歴史の勉強みたいになってしまったのは、タイトルを書いてから本文の内容がなかなか思いつかなかったので、苦し紛れの仕儀である。こんな日もあろう。

最近読んだ 安部龍太郎 『等伯』 は、この「室町文化」に続く「桃山文化」の華、長谷川等伯が主人公で、少し前に読んだ 山本兼一 『利休にたずねよ』 もこの時代。どちらも興味深い小説だった。

さて、今回のタイトルは、狂言の約束事の一つ。芝居が終わって橋掛かりから揚幕へ引っ込むときに(「追いたて」とも「追い込み」ともいう)、「やるまいぞやるまいぞ」と言いながらハケるのだ。
「終わったで」と合図しているようなものと考えてよい。

芝居を始めるときは、「これはこのあたりにすまいいたすものでござる」と自己紹介(「ここら辺の者や」と言っているだけ)をするのもお約束。「吉本」とは言いえて妙、とにかくわかりやすい。
数百年も連綿と受け継がれている芸能、ってなんかすごいことやと改めて思う。

学校で習った「日本史」なんて、「〇〇時代」という区分が表すとおり「権力者史」でしかないから、あまり身が入らなかった。違った視点でもう一度学び直せたら面白いやろな。
by rurou-no | 2013-05-30 15:10 |

喜色満面の好々爺

またしても訃報である。24日付朝日 <おおらかな芸と人柄で愛された、狂言の人間国宝で文化勲章受章者の四世茂山千作(しげやま・せんさく、本名茂山七五三〈しげやま・しめ〉さんが23日午前0時15分、肺がんのため死去した。93歳だった。>

その舞台に接した人はだれもが口をそろえる、「出てきただけで大笑いしてしもた」と。
劇場であればなおのこと、堅苦しい能楽堂にあっても、それまでの雰囲気を一変させる天性の狂言師だった。喜色満面、おおらかな芸風は一瞬にして人を虜にしてしまう、不思議な力があった。

12世千五郎を名乗っていたころに、何度か観る機会を得た。
茂山家は京都なので、大蔵流の狂言は身近にあった。「お豆腐狂言」を標榜してたから、怪しげで風変わりな恰好の若造でも敷居を気にすることなく気軽に足を運べ、ファンを自称できたのである。

そろそろ出番や、と思うだけで笑いがこみ上げてくる。千五郎さんが登場した途端、堰を切ったように笑いがからだの中からどんどんあふれ出て止まらない。その姿が舞台から消えるまでの間、心からしあわせな気分にひたれる至福のひとときを過ごせるのだ。

「笑いの神」が降りてきた、といっても過言ではなかった。そこにいる人はみんな喜色満面の笑顔を自分のものにできるのだから。
能楽界の枠を飛び超えて幅広く活躍した千五郎さんは、役者だけでなく企画・演出にも異能の才を発揮した弟の千之丞さんとともに、二人三脚で今日ある狂言の隆盛を築いた。

芸というのは、存在そのものでもあるので、生きているうちにしかその人の芸は味わえない。
あとに続くものがどれだけ、その真髄を継承していけるのか、である。

そして私たちは見巧者としての力を磨くことで、関わっていけるかもしれない。だけど、今の自分にはそれすら叶わぬ現実がある。千作さんの「スーパー狂言」もとうとう見られなかった。
「至宝」を失ってからでは遅い。与えられた時間は限られている。
by rurou-no | 2013-05-27 14:45 |

威風堂々たる裁き

前回に続いて相撲ネタで恐縮する。白鵬と稀勢の里の優勝争いは気になるところだが、今場所中に65歳の定年を迎えた、立行司36代木村庄之助について触れてみたい。
千秋楽結びの一番限りで、その姿が見納めになる(優勝決定戦があればうれしいオマケ)のだ。

朝日の抜井レポートによると、<中学3年生の12月、郷土の英雄・鶴ヶ嶺(先代井筒親方)に会わせてやる、と知人に言われて巡業に行ったが会わせてもらえず、なぜか行司に内定した。「あの時は『大人にだまされた』と思いましたね」。以来、半世紀。土俵人生を務め上げた。>

一意専心、50年もの長きに亘って相撲の行司一筋に全うし、「土俵上の立ち姿は錦絵のごとく」と讃えられるほど美しい所作で軍配を裁いた。腰を低くした構えでピシッと静止する姿は、誰にも真似できるものでなく、他の追随を許さない厳しさがあった。蹲踞の姿勢でも微動だにしなかったとか。

先代庄之助はいぶし銀の風貌と威厳に満ちた裁き、場内アナウンスも務めた声と滑舌の素晴らしさが印象的だったが、当代は能筆であることから、長く番付表を担当していたという。あの独特な相撲文字のスペシャリストでもあったわけだ。

呼び出しの声の調子や抑揚が場内の雰囲気を左右するように、行司の所作も大相撲の様式美を構成する一要素として疎かにできない。それぞれ個性はあっていいものの、あくまでも楷書の所作であるべきなのだ。最年長者が一番端正であるというのは、下の者の修行の足りなさではないか。
当代庄之助には、定年後は教育係として所作を厳しく指導してもらいたい、と思うほどだ。

古いしきたりの残る階級社会で、階段を一段ずつ上がっていくしか方法がない世界ゆえ、ひたすら実直に日々研鑽を積むのみというのは、並大抵のことで成し遂げられない道のりだろう。
若い人には、魅力ある仕事には映らないだろう。それでも誰かが受け継いでいかないと、大相撲そのものが成り立たなくなるのだ。

鹿児島県出身、井筒部屋所属。36代庄之助は今日を含めて残り4日である。
by rurou-no | 2013-05-23 14:19

心技体

大相撲夏場所も中日を過ぎたところで、2ヶ月ごと恒例の相撲ネタでおつきあい願いたい。
ここまで横綱の白鵬、大関の稀勢の里と鶴竜が全勝で給金を直し、優勝争いは3人に絞られた。

地元勢(関西出身)で注視している、勢は6勝2敗と好調。豪栄道と妙義龍はともに5勝3敗、相撲内容が充実しているから後半戦も楽しみだ。
元田子ノ浦部屋の碧山と南米ブラジル出身の魁聖も5勝3敗。舛ノ山君は4勝4敗と五分の星。
怪我で十両最下位まで下がってしまった、元小結の豊真将は4勝4敗とまだ本調子ではない。

「心技体」とは、スポーツの世界では精神力、技術、体力のバランスが大切であるとの教え。
体育会系の雰囲気(上下関係やしごき体質など)が肌に合わないので、スポーツが好きなくせに敬遠して、もっぱら見るだけになってしまった。

もともと「草食男子」という言葉が流行りだしたとき、自分のことやと思ったくらい「肉食」とは体質的に違うから、スポーツ向きではなかったし、争ったり競争したりすることも好まなかった。
何事も「見る」より「やる」ほうが面白いのは知っているのに、ただ楽をしたいだけかもしれない。

スポーツ全体の話でなく、今回はあくまでも相撲ネタだった。
18日付朝日、抜井記者のレポート。<勝ったのに、クヨクヨしている。「あんなしょっぱい(みっともない)相撲を取っちゃった。これじゃ明日から負けちゃうよ」。><グルジア出身の26歳。200㌔を超える体重を気に病み、「こんな体じゃ、彼女もできない。この目方は人としてどうかと思う」。でも朝のチャンコでは納豆で丼飯をかき込み、時に大好物のアイスをキロ単位で食べてしまうものだから、体重増が止まらない。> 臥牙丸を取り上げた記事である。

体力は恵まれているのに、格闘技のプロとは思えないほど気が小さいため、赤鬼のような顔でクヨクヨしているところが愛嬌となる。ほかに202㌢の長身でブルガリア出身の琴欧州や198㌢、189㌔のエストニア出身の把瑠都なども、気の優しさが勝負師として弱いところ。

それぞれ憎めない個性である。土俵上に多様な華を咲かせているから、それでいいではないか。
いろんな力士がいたほうが土俵は賑やかになり、盛り上がって楽しめるというものだ。
by rurou-no | 2013-05-20 13:54

国ありて民は番号となりし

田舎にて世間との関わりを少なく暮らしているとあまり気にならないが、都会ではいたるところに監視カメラがあり、一歩街へ出れば常に誰かによって監視されているのが常態化して、そんな怖ろしい状況にも無頓着であらねば、生活そのものが成り立たないそうな。
かつてない監視社会・管理社会の中で、安穏としているとえらいめにあうで。

数十年来の懸案とされていた「国民総背番号制」がいよいよ、スタートすることになりそうだ。
私たちは一人ひとり国から番号を与えられ、個人情報を番号によって管理されるようになる。
首に番号を記入した札をぶら下げて、その番号で個人が識別されるのだ。

いったい何桁の数字になるのか、自分の番号を覚えられるのかと不安である。仮に街で職務質問された時、住所や名前の代わりに番号を答えられないと、逮捕されたりするのやろか。
役所へ提出する書類に番号記入欄があって、間違った番号を書いてしまうと公文書偽造の罪に問われるのやないか、など心配の種は尽きないのだ。

個人の人格が数字に変換されるというのは、なんとも気持ちの収まりが悪くて落ち着かん。
確かに単なる数字だと、人間以前の存在として人権無視もしやすくなり、便利だとは思う。
個人情報がその数字に集約されているので、データの流出により世間のさらし者になるのは避けられない。頭のいいヤツが他人の番号を不正に入手して、犯罪に利用するのは当然ありうる。

行政手続が簡単になるといわれるが、10年ほど前に導入された「住基ネット」のときもそう言っていた。実際は職員がシステムを使いこなせなくて、却って時間がかかったと聞いた。
システム整備に400億円、年間維持費200億円かけて、今どれだけの効果を上げているのか。個人情報の流出は後を絶たないけど。

今度の初期費用は約3000億円、年間維持費は数百億円といわれる。行政事務の効率化と個人情報の管理に、だ。いったいだれが甘い汁を吸ってるのか、だれが得をしてるのか。
やれやれ、がんじがらめの管理社会と、ネットで個人情報バレバレやなんて。こんなビンボーでよう生活してるなぁ、と笑われそうなのも癪やし。頼んでもないのに余計なことせんといてくれ。

そのうちに、自分の番号をプリントしたTシャツを着なきゃならん、てなことになりかねないぞ。
あれこれ考えていると、目眩がしてきそうや。
by rurou-no | 2013-05-16 14:17

冥土の飛脚

しもた! 「め」は最近出たばかりやった。と、気がついたのは前回投稿途中だった。
思いつくままタイトルをしりとりして、それに関する内容をある程度の長さの文章にまとめるという、ゲーム感覚の気分でやっているから、時にはこんなこともある。
今さら変えるのもあほらし、とそのまま落語ネタを続けたら、最後は歌舞伎で終わった。

というわけで、今回は歌舞伎流れで 『冥土の飛脚』 。江戸期を代表する狂言作者、近松門左衛門が人形浄瑠璃として書いた傑作である。歌舞伎では 『恋飛脚大和往来』 (こいのたよりやまとおうらい)という外題が定着しているが、ややこしい外題より 『梅川忠兵衛』 のほうが通じる。

秋元松代 作、蜷川幸雄 演出で舞台化された 『近松心中物語』 は、この『冥土の飛脚』 がベースとなった。また北野武監督の映画 『Dolls』 もこれを下敷きにしていたのではなかったか。

飛脚問屋の跡取り養子である忠兵衛は、新町の遊女梅川と馴染んで遊興費にも事欠くようになる。そんなある日、梅川の身請け話が持ち上がり、忠兵衛は友人の八右衛門へ届けるはずの為替金五十両を身請けの手付けとして着服してしまう。八右衛門から五十両の催促をされた忠兵衛は、お屋敷へ届けるため懐にあった為替金三百両の封を切ってしまう。封印切りは死罪であった。
梅川と忠兵衛は手に手をとって、忠兵衛の生まれ里である大和新口村へ逃げのびるが、やがて追っ手に追い詰められる。


少し前、片岡愛之助のことを書こうとして取り上げた 『新口村』 はこの芝居の三段目に当たる。
上方歌舞伎ならではの世話物で、忠兵衛のたよりなさや八右衛門とのアドリブを交えた丁々発止のやりとり、男女の悲哀、親子の情愛、雪や遠見の演出など見所は多い。

公金横領は、現代でもしばしばニュースになるほど普遍的なテーマだ。江戸時代は死刑という大罪だったが、近ごろは頻発するようになったせいか、罪が軽くなった気がする。それどころか、たとえば被災地復興費を勝手に横取りしている政治家や官僚は、何の咎めも受けていない。

近松は実際に起きた事件を元にして、数々の名作をものにした。
欲ッタレどもが横行する世知辛い今の世の中で、人情の機微がなくなれば物語も生まれぬ。
by rurou-no | 2013-05-13 13:57 |

抜け雀

このところ血圧が高くなってばかりだから少し頭を冷やそうと、上方落語からタイトルを借りた。
わが家の裏は藪になっていて、去年まではスズメやウグイス、ホトトギスなど盛んに啼いていたというが、今年はあまり聞こえないらしい。 『沈黙の春』 が近づいているのかもしれない。
らしい、と頼りないのは、年中蝉を飼っている小生の耳に小鳥の鳴き声はもともと届かないのだ。

『抜け雀』は、路銭を持たない貧乏絵師が小田原の宿で毎日上等な酒を呑んで長逗留したあげく、宿代を支払う段になって一文もないと白状する。代わりに衝立へ雀の絵を描いて去った。
ところが絵の中の雀が毎朝、チィチィ啼きながら絵から抜け出て飛び回っては元の衝立へ戻ってくる。それが評判となり、抜け雀見たさの客が連日押しかけて宿は大繁盛。

ある日、この絵を見に来た老人が「雀はそのうち力尽きて死んでしまうから羽を休められるように」と、雀のそばに鳥かごと止まり木の絵を描いて去った。次の朝飛び出した雀が帰ってきて鳥かごに入り止り木へ。それがまたまた評判を呼んだ。そんなある日、最初に雀の絵を描いた絵師が再訪、衝立の前に立ち鳥かごの絵を描いたのは実の父と知って、自らの慢心と親不孝を詫びた。


この噺はサゲが難しい。「何の親不孝がこざいますかいな」「いや不孝ではあるまいか亭主、親に籠をかかせた」となる。「籠を描く」と「籠を舁く」をかけて、親に籠舁きさせる「逆縁」のことか?

これは文楽と歌舞伎で上演される『双蝶々曲輪日記』(ふたつちょうちょうくるわのにっき)の「橋本の段」からとっている。お客さんも浄瑠璃を知っているのが前提になったサゲである。半可通の小生なんぞは足元にも及ばない、さりげなく当たり前に、知的で粋な娯楽を楽しむ人たちよ。

ちなみに『双蝶々』は、「角力場」と「引窓」が有名だ。「角力場」は、相撲の大関、濡髪長五郎と力自慢の若者、放駒長吉が相撲をとって、贔屓を助けたいために濡髪がわざと負ける。
「引窓」は、人殺しをして追われている濡髪が実家へ立ち寄ったところ、母親の再婚相手の息子が濡髪を捕まえる命を受けていた。実の息子を助けるか義理の息子の手柄を立てさせるか板挟みで悩む母、2人の息子は自らを犠牲にして相手のために互いを思いやる心意気。天窓を開ければ月光が差し込んで部屋が明るくなり、閉めれば闇へと、月の光を象徴的に表現した芝居である。
by rurou-no | 2013-05-09 14:21 |

もどることは許さぬ

前回の投稿は、けっして敗北主義に陥っているわけではないので誤解しないでいただきたい。
もはや情勢はかなり危ういところにあるのは、避けられない。何しろ「数は力なり」である。
ここで、戦前の悲嘆と苦難の時代へもどることは許さない、という強い意志を示しておきたいのだ。

3日付の朝日新聞に、憲法学者の石川健治東大教授が、改憲発議要件を定めた「96条」について寄稿していた。わかりやすくて示唆に富む内容だから、一部引用したい。

<現在の日本政治は、こうした当たり前の論理の筋道を追おうとはせず、いかなる立場の政治家にも要求されるはずの「政治の矩」(規範となるもの=引用者注)を、踏み外そうとしている。> (中略) <これは真に戦慄すべき事態だといわなくてはならない。その主張の背景に見え隠れする、将来の憲法9条改正論に対して、ではない。議論の筋道を追うことを軽視する、その半知性主義に対して、である。>

<それでは、憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見出すことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドルールを変更する資格をもたないのと同じである。
フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。>


翌4日付には、改憲論者を自認する小林節慶大教授が <私の知る限り、先進国で憲法改正をしやすくするために改正手続きを変えた国はない。権力者の側が「不自由だから」と憲法を変えようという発想自体が間違いだ。立憲主義や「法の支配」を知らなすぎる。地道に正攻法で論じるべきだ。「96条から改正」というのは、改憲への「裏口入学」で、邪道だ。> と述べている。

ほとんど引用になってしまったが、年寄りの能書きは血圧が上がるばかりなので、時にはこうして専門家の言を借りて冷静に考えることもいいのではないか。と、楽をしてみた。
by rurou-no | 2013-05-06 15:39

たとえ「非国民」呼ばわりされようとも

カレンダーを見ると、明日から赤い数字が4つ並んでいる。いったい何の日かわからないので確かめたところ、3日「憲法記念日」、4日「みどりの日」、5日「こどもの日」、6日「振替休日」となっていた。3日と5日の祝日は知っているが、「みどりの日」や「振替休日」っていったい何やねん?
人並みに休みをとれる仕事をしてこなかったから、さっぱりわけわからんとぼやきたくもなる。

明日は「憲法記念日」かぁと改めて認識したところで、今回のタイトル。
「非国民」なんて大層なことばを持ち出したと言うなかれ。自民党や維新(王政復古党)などが改憲手続きを緩和しようと動き出している。その自民党が発表した「改憲草案」が通れば、小生なんぞはたちまち「非国民」呼ばわりされてしまいかねないのだ。

そもそもコイツらは憲法がどういうものか、初歩的なことすら解っていない。無知にもほどがある。テメエらには憲法を語る資格はないことを知れ。なにが「草案」だ、バカタレめ。
憲法というのは、こんな馬鹿な連中が調子に乗って暴走しないための定めなのだ。公権力の横暴を規制し、国民の人権を保障する最後の砦だ。それが国際基準といえる「立憲主義」の目的である。だからこそ、簡単に変えられないようになっている。

自民案は、この「立憲主義」を頭から否定し、国民は国家に奉仕する義務が課せられている。
基本的人権はないがしろにされ、表現の自由もなくなる。個人の尊厳は奪われるのだ。
そして徴兵制を布き、戦争(人間同士の殺し合い)をする国になろうとしている。これが奴等のいう「普通」の国だ。国家権力の権限が強調され、そこには個人の意思はない。

これらを受け入れず、お上に逆らう者は「非国民」のレッテルが貼られて、袋叩きにあうだろう。
決して大袈裟でなく、すでにネット空間ではそうなっているのは、誰もが知るところ。
自由を愛し、自己表現を求め、人殺しをしたくもさせたくもない者は、それなりの覚悟がいるぞ。

あろうことか、マスコミが一斉に右へ倣えで現政権を支持する論調になってきた。危惧したとおりの戦前体制だ。歴史は繰り返す習いなら、「非国民」の歴史も繰り返そうではないか。
不肖このジジイ、残り人生短いとはいえ「非国民」の罵詈雑言を受ける準備はできている。
by rurou-no | 2013-05-02 14:13

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