一所不住



カテゴリ:美術( 32 )


ベロ藍に画狂老人溌剌と

しりとりに加えて、ひょんなことから「十七文字で」という決め事をしてしまった言葉遊びだけに、本文と直接関連しない表題があっても気にしないように。

4日、テレビ「日曜美術館」で、谷川晃一さんが取り上げられていた。
一度しかお会いしていないが、評論やエッセイに親しみ、色や形が奔放に展開する絵のファンでもあったので、珍しく朝からテレビのスイッチを入れチャンネルを合わせる。

80歳近い年齢でありながら、伊豆高原のアトリエで旺盛な創作活動をしている日常を紹介していた。8年前に宮迫千鶴さんを亡くしてから、一人暮らしをしているそうだ。
森を歩き、自然の中から感性を得て、線をひき色をのせていく作業は興味深い。
写生をすると形に捉われるから写生をしない、というのもうなずける。

インタビューに応える声は(役立たずの耳のせいで)聞き取れないのは残念だけど、お元気な姿を見られただけでも良かった。色違いの同じデザインの眼鏡を洋服に合わせて使い分けたり、自分で料理をしたり、背筋がまっすぐに伸び、きちんと生活をしている。恬淡とした生き方は、その年齢を感じさせない。

そこで画狂老人北斎を連想して、表題となった。
若冲の時代にはプロシアの紺青=プロシャンブルー(ベルリンの藍=ベロ藍)は高価で貴重な色だったが、時代が下って北斎の時代になると安価で手に入れることが容易になったため、北斎『富嶽三十六景』や広重『東海道五十三次絵』など、浮世絵の傑作を彩ることとなった。

ともあれ、番組を一緒に見ていた連れ合いが「また描きたくなってきた」ともらすほど、心境の変化を促す効果はあった。
禿頭爺といえば、今週はずっと体調が悪くて、暇を見つけては寝てばかりなり。

by rurou-no | 2016-12-09 11:00 | 美術

モディリアーニ

フェルメール『真珠の耳飾りの少女』を目玉に、「マウリッツハイス美術館展」が神戸市立博物館で、大阪の国立国際美術館では、「エル・グレコ展」が開かれている。
美術展好きは、両館をハシゴして自分勝手に「芸術の秋」と洒落ていることだろう。

フェルメール、グレコともに、ここで前に取り上げた。彼らは好きな画家で、その作品は自分の中では十分に堪能したという思いがあって、今回は特に食指は動かない、とは負け惜しみでなく。
もちろん、余裕があれば出かけるのはやぶさかではないが、諸般の事情はそれを許さないのだ。
それでいい。今はむしろ和泉市の弥生文化博物館で開催中の「縄文の世界像展」に魅かれる。

グレコの特徴である細長い人物のフォルムを思い出しているうち、ジャコメッティの彫刻、そしてモディリアーニの絵と連想していった。モディリアーニの描く女性の肖像はどれも、細長い首の上に細長い顔が乗っている。目に瞳が描かれない彼女らは、はかなげでとても魅力的である。

モディリアーニはイタリアのトスカーナ地方でユダヤ系イタリア人として生を受け、21歳のときパリへ出て洗濯船のあったモンマルトルにアトリエを構える。その後モンパルナスへ移り、ピカソやユトリロ、キスリングら錚々たるメンバーと交友を結ぶ。アルコールと薬物に溺れ、破滅型の天才だった。
彼の生涯は半ば伝説となり、『モンパルナスの灯』(1958)、『モディリアーニ 真実の愛』(2004)と2度映画化されている。

タイトルが「も」からだったので「モディリアーニ」を採用したが、美術に関する記事は久しぶりだ。
美術展はもう何年も御無沙汰だし、美術書や図録なども手元に置かないまま過ごしてきた。田舎で暮らすというのはこういうことなんやろう。
なにしろ吉永小百合主演の映画『北のカナリアたち』すら、車で1時間の映画館で上映しないから。

感性がどんどん鈍くなっていきそうな気がして心細い。
都会の文化レベルと田舎の自然環境、両方求めるのはないものねだりの欲張りか。
田舎でしかやれないことがあるのに、生活に手一杯でおもいきり遊んでないのはもったいないぞ。
by rurou-no | 2012-11-29 17:09 | 美術

芦雪

昨日は「串本応挙芦雪館50周年記念」として、美術史家の山下裕二さんが串本の無量寺本堂で講演会を開いたので出かけた。題して「芦雪は楽し!」。

応挙芦雪館は1961年11月に開館した。
建設費用は地域住民の寄付であり、工事中は大勢の人が勤労奉仕に駆けつけたと伝えられる。
地域の文化財を大切にしよう、との熱意が結実した日本一小さな美術館であった。

せっかく半世紀を祝うイベントなのだから、案内パンフレットなり当日の主催者挨拶なりで建設当時の経緯に触れて、50年前の篤志ある人たちに感謝と敬意を表してほしかった。
礼節をわきまえるべし。

山下さんは確か、路上観察学会で赤瀬川さんや藤森さんらと街歩きをしていた、と記憶している。錚々たるメンバーの中では三下扱いだったはず、といっても20年以上も前のことだけど。
ところが近ごろではテレビや雑誌で売れっ子になっているらしい(見ないから知らない)。

この日は山下さんの師である辻惟雄さんも来場して最前列に陣取っていた。
日本美術のコレクター、ジョー・プライスが「一番好きなのは芦雪の『虎図』です」と本人から直接聞いた話から始めて、象の背にカラスや牛の足元に子犬が描かれている屏風の写真を見せながら、「最初はなんだろう、と思わせて開いていくにつれて全体が見えてくるように意図して描いている」。

掛け軸では、牛の正面図や岩の上のカエルなど大胆な構図で本領を発揮している。また虎図障壁画が虎の絵としては最大なら、一寸四方に500体の羅漢を描いた絵が発見されるなど、「芦雪は人を驚かせるのが好きな人だった」と嬉しそうに話す。『虎図』は襖の裏には猫に睨まれている魚の絵があり、その魚の目線で描かれているといわれている。

話の区切りごとに「だから芦雪は楽し!なんです」と何度も繰り返していた。
講演の後半部は「応挙あっての芦雪」として、兵庫県香美町の大乗寺にある応挙の絵を解説。「2年後、名古屋で大々的な応挙展を開く準備中です」と宣伝も忘れなかった。
1時間あまりの短い時間だったが、分かりやすくて聴きやすい講演だった。
by rurou-no | 2011-11-13 16:06 | 美術

ジャコメッティのフォルム

アルベルト・ジャコメッティは1901年スイス生まれの彫刻家、画家、版画家。
21歳でパリへ出てアンドレ・ブルトンのシュルレアリスム運動に参加、サルトルらとも交友があったといわれる。

何年前かは思い出せないほど前に、パリの市立美術館でだったかジャコメッティを見た。
前年の10月に渡欧しイタリアとフランスでの仕事を終えてから、南フランス、スペイン、ポルトガルを1ヶ月かけて旅行したあと年末にパリへ戻った。
大晦日の夜、カウントダウンで大騒ぎする街へ出て、雰囲気に呑まれるまま高揚した気分で新年を迎えた。

元旦の朝になり、数時間前まで身動きがとれないほどの大勢の人で埋め尽くされていた広場は、同じ場所とは思えない静けさが支配して、人の姿はもとよりその気配すら消えていた。
あのバカ騒ぎの喧騒は夢だったのかと不思議な気に包まれて、この世から自分以外のすべての人がいなくなってしまったのでは、と不安になった。

行き場のない気持ちをなんとかしたいと情報誌を調べたら、ちょうど「ジャコメッティ展」をやっていた。
美術館はクリスマスに休館していたが、正月は元旦から平常どおり開いていた。
ジャコメッティは好きな彫刻家の一人で、パリ滞在中に展覧会をしていた幸運を喜んだ。

彼の特徴ともいえる細いフォルムに魅かれる。余分なものをそぎ落とした結果、針金のように細くなった像。中には数センチの小さなものもたくさん展示されていた。
ジャコメッティの作品を見ていると、じっとしてほとんど動かない能のシテが舞う姿を思う。
突き詰めて極めた先にあったのはこれだけ、という潔さを感じるのだ。
by rurou-no | 2010-05-05 14:48 | 美術

エル・グレコ

人々から「ギリシャ人」と呼ばれ、とうとうその名が定着してしまった エル・グレコ
本名を調べたら ドメニコス・テオトコプーロス(1541~1614)となっていた。
ギリシャ・クレタ島に生まれ、イコン画を学んだ後、イタリア・ローマへと渡り テツィアーノ
師事してヴェネツィア派絵画を学んだ。36歳の時宮廷画家への野望を抱きスペイン・トレドへ。

エル・グレコと初めて出会ったのは、倉敷にある大原美術館だったと思う。 『受胎告知』 この
多くの画家がモチーフとしている作品でも、その特徴が明らかである。細長く伸びた人物像が
独特の構図の中で描かれており、誰が見てもエル・グレコだと判るから親しみを感じるのだ。
その後、パリのオルセー美術館、マドリッドのプラド美術館などのコレクションとも出会った。

この「ギリシャ人」が後半生を過ごした、トレドという古都に興味を持ち出かけてみた。
スペインのちょうど真ん中に位置し、マドリッドとは鉄道で結ばれている。
先史時代から人が住み、中心都市として栄えた。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の文化が
共存、混在した。城壁に囲まれた町全体が歴史博物館の態で、15世紀のカテドラル(大聖堂)
など教会建築が、2000年も前からの都であった痕跡を残している。

タホ川に架かる13世紀に造られたサン・マルティン橋を渡って町へ入ると、そこは石畳の迷路
となっていた。少し歩くと広場に出て、また路地へ迷い込む。そんな繰り返しが心地良い小さな
町であった。次は城壁に沿って半周してみる。塀に手を当てて歩く。そうするとこの町が如何に
外敵を恐れていたか、守るべきものがあったかがよく分かる。

ふと、エル・グレコも描いた町の全体像を見たくなり、小高い丘に出来た町よりも更に高い丘を
探して登ってみた。まさに絵画的世界の光景が目に飛び込んできた。目のご馳走である。
こうして1日中、この小さな古い町を遊んだ日を思い出す。
by rurou-no | 2007-08-25 14:42 | 美術

イヴ・クライン の青

インターナショナル・クライン・ブルーイヴ・クライン は、1928年南フランスの地中海沿岸にあるニースで生まれた。18歳の時、秘密結社「薔薇十字団」に入会。
29歳の時、神秘的で非物質的な色として、インターナショナル・クライン・ブルー(I.K.B)を創り出した。そして34歳で急逝する。

私は仕事柄、色にはことのほか興味を持っており、中でも青系の70番台はよく使う色である。
色でおまんま食べさせてもらってる身としては、クライン・ブルーの本物を是非とも見てみたいと思うのは当然のこと。パリのポンピドー・センター内にある近代美術館にそれはあった。

ガシャガシャとうるさい音がする方へ歩いて行ったら、ジャン・ティンゲリー のオブジェがあり、その隣で、深い青色が眩いほどに存在を主張していた。そういえば、クラインとティンゲリーは同じ《ヌーヴォー・レアリスム》の仲間だった。

京都の烏丸通りに、その名も「ティンゲリー」という喫茶店があった。驚くなかれティンゲリー自身がデザインした店内には、オブジェは勿論のことテーブルやイスに至るまですべてがティンゲリーの作品であった。かといって特別高い珈琲を出しているわけではなかったのですごく徳をした気分になり、よく利用していた。

いつ行っても他にお客さんがいたためしがなく、不思議な店だった。
その京都の駅前にある、京都タワーをクライン・ブルーに染めてみたいという企画があった。
面白そうだからやってみましょうと、大まかな予算の見積もりを出したところで流れてしまった。

見えない青色を展示(画廊には何もなかった)する。大気を集める。火の軌跡を記録する。
人拓を採る。=人体測定。クラインのアイデアは、現代美術の先鞭をつけるものであった。
その中核をなすのは、青のモノクローム。宇宙の青色。
by rurou-no | 2007-08-04 14:23 | 美術

歌麿

江戸時代の浮世絵師として誰もが最初に思い浮かべるのは 喜多川歌麿 だろう。
蔦屋重三郎 のプロデュースで出した〈大首絵〉の美人画が大ヒットして一躍人気画家となる。
美人画といえば全身を描くのが通例であった当時、顔をクローズアップした絵は江戸の人々の
度肝を抜き、飛ぶように売れたという。いわばブロマイドのはしりのようなもの。

モデルとなったのは吉原の花魁や岡場所の遊女、そして茶屋の娘などであった。
絵に描かれた娘の姿をひと目見ようと、男たちが押しかけて茶屋は大繁盛したそうだ。
それを知った他の茶屋の娘から売り込みが凄かったというから、商売人はしたたかである。

また歌麿は〈春画〉でも才を発揮し、その代名詞となるほど数多くの傑出した作品を描いた。
「吉原細見」 というガイドブックを出す弱小書店・出版社に過ぎなかった蔦屋は、歌麿を売り
出すために仕掛けたアイデアが大当たりしたことに気を良くして、〈雲母刷り〉の美人画を出す
などだんだんと華美になっていった。時は〈寛政〉である。

いつの世でも急激に成長した新興勢力・ベンチャー・ビジネスは、既得権益を持つ他の商人
たちの嫉妬の対象となり、足を引っ張られる。出る杭は打たれるのだ。

保守派クーデターによって失脚した田沼意次のバブル時代、その後を受けた松平定信による
《寛政の改革》の風俗取締りに引っ掛かった。山東京伝 の〈黄表紙・洒落本〉が目を付けられ、
出版元である蔦屋が京伝とともに処罰されたのである。

一方、売れっ子となった歌麿は世話になった蔦重から離れ、好条件を提示する他の出版社に
鞍替えしてしまった。歌麿に逃げられた蔦重は、超大型新人絵師を発掘して再起を図る。
〈役者絵〉の 写楽 の登場である。僅か10ヶ月で137点の錦絵を残して姿を消した謎の絵師。
by rurou-no | 2007-07-21 15:50 | 美術

ミレー の 『晩鐘』

ジャン・フランソワ・ミレー(1814~1875) は、バルビゾン派の代表的な画家。
フォンテーヌブローの森の近くに住み、自然主義に基づいた写実的な農民の風俗を描いた。

西洋画というものを初めて認識したのが、ミレーの 『晩鐘』 だった。
夕刻の光の中で、畑仕事をしていた農民夫婦が教会の鐘が聞こえてきたのを合図に仕事の
手を休め、祈りを捧げている姿が描かれている。死者への祈りだそうである。

夕焼けの空、夕日を受けてシルエット気味の2人の農民、静かな祈り。
絵はこんな風に描かないといけないと説明をされたのだと思う。見たまんまを描けと教えられて
いた。謂わば、絵の手本だった。

まだ素直で、先生の言うことをよく聞いていたころの少年N は、ミレーに倣って漁港へ写生に
行った。そして漁師が網仕事をしている様子を絵に描いた。後にも先にも絵を褒められたのは
そのときの1度だけ。小学生だった。その後ミレーへの興味も、だんだん薄れていく。

ミレーと再会?したのは、それから20年以上経ってから。パリのオルセー美術館でだった。
『晩鐘』 の他に 『落穂拾い』 『羊飼いの少女』、風景画の 『春』 などがあった。
当時は現実を描いた絵よりも、超現実を描いたものの方に惹かれるようになっていたが、実物
からは様々な記号が読み取れて、「おぉっ、ミレーはええやないか」なんて改めて感じ入った。

ダリは、この『晩鐘』の複製画を見て成長し、後に『晩鐘』を題材にした作品を描いた。「晩鐘は
私のこころに得体の知れない苦悶を生み出した。」と、ダリは書き残している。

『晩鐘』からスタートした絵を見る悦び。幸いにして目は、まだまだ衰えていない。絵に限らず
見ることの快楽は、惜しみなく追求していきたい。
by rurou-no | 2007-07-18 16:25 | 美術

キスリング

山の好きな人には懐かしい帆布で出来た 〈キスリング〉 は、横幅が広くて体よりも外に出てしまうため邪魔になることがあり、私はもっぱら縦長の 〈アタック・ザック〉 や 〈バック・パック〉を愛用していた。それでも山を歩き出した当初は、キスリングタイプのリュックサックを担いで出かけたものだ。肩に食い込む荷物の重さは、山歩きの醍醐味?でもある。

と、書き始めたのはいいが、今日はそのキスリングではなかった。
モイズ・キスリング(1891年~1953年)は、ポーランド出身の画家である。
19歳の時にパリへ出て、後に 《洗濯船》 の一員となる。勿論、ピカソモディリアーニ が住んでいた安アパートで、アトリエとしていたところでもある。

ピカソとともに 《キュビズム》 を創始した ジョルジュ・ブラック に連れられて洗濯船へ出入りするようになった マリー・ローランサン は、そこで ギヨーム・アポリネール と出会い恋に落ちる。アポリネールはローランサンへの想いを綴った傑作 「ミラボー橋」 を発表する。
そのときすでにローランサンの気持ちは、アポリネールから離れていた。

また脱線してしまった。《エコール・ド・パリ》 のキスリング、《モンパルナスの帝王》 キスリングである。キスリングの絵はコントラストが強く、色彩が豊かである。特にキスリングの描く女性には憂いを帯びた眼差しと壊れやすい危うさが感じられ、不思議な魅力となっている。
アリス・プラン をモデルにした 「モンパルナスのキキ」 の絵は100枚以上もあるそうだ。

ユダヤ人であるというだけでパリでも謂われなき差別を受けていたにも拘らず、画家として成功を収めたあとは他の画家の面倒を良く見たと伝えられている。志願して第一次大戦の外人部隊に従軍し、戦場での重傷と引き換えにフランス国籍まで取った心境は窺い知れない。
今年はスイス・ジュネーブにあるプティ・パレ美術館のコレクションが、全国を巡回展中らしい。
by rurou-no | 2007-07-16 15:46 | 美術

ムンク

北欧ノルウェー出身の画家 エドヴァルド・ムンク(1863~1944) の展覧会へ行ったのは
まだ20代のころだったと思う。ムンクといえば 『叫び』 しか思いつかないくらいその絵だけが
有名で、またインパクトが強い。フィヨルドの夕景と説明されている赤い空と濃紺の海、橋の上
には遠くに2人の人物の影、そして手前で耳を塞ぐ歪んだ顔の人物。

初めてこの絵を美術誌で見た時は、手前の人物が叫んでいる姿を描いているものだとばかり
思っていた。ところが実際は「自然を貫く果てしなく、終わることのない叫び」に驚いて耳を塞い
でいる様子を描いているらしい。恐怖と不安におののいているように感じる。

ムンクには「死」のイメージがついてまわるものの、筆使いからは強いエネルギーさえ伝わって
くる。パリそしてベルリンで画家としての刺戟を受け、旺盛な創作欲に駆られていたことが想像
できる。世紀末に多くの作品を発表したことで、ムンク=世紀末の暗いイメージと安易にとらえ
られてしまいがちだが、印象派のような作品も残してはいる。

透き通るほどの白い横顔の少女 『病める子』 は生の不安に怯えていて心が脆い状態である。 
少女から大人の女性へと変わる危うい時期の裸体 『思春期』 は不安と希望が交差している。
『マドンナ』 は成熟した女性のエクスタシーの表情が死の予感を漂わせている。
どの絵も静かで音が聞こえてこない。この静けさが不安を誘うのだろうか。

北欧は行ったことがないので、太陽が少なくて暗いという一般的な印象しか思い浮かばない。
これはムンクの絵の影響も多分にあると思う。それほど大きな存在であることを再認識した。

ピーター・ワトキンス 監督 「ムンク・愛のレクイエム」(1976年)という画家ムンクの人生を
描いた映画があった。彼の絵の背景に興味があるが、まだ未見である。
by rurou-no | 2007-07-11 14:45 | 美術

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