無為な日々であっても時間は徒に過ぎていくもの。
老爺には酷だ。何事も成さないまま(生きている限り何かを成しているはずだが)1年を振り返って、身体的な退化を実感するのみ、という現実を突きつけられる。
大して変わらぬ日常を淡々と繰り返す。こんなんではあかんなぁ、と漫然と考えているだけで、現状に甘えていては駄目であると自覚はするものの、さて、いったい何をしたいのか、今更何かをしようという気になれない。やっぱりあかんやないか。
若いころ無茶をしていたので、還暦まで生きていられるとは思っていなかった。
もし生き永らえたとしたら「人里離れた小さな庵でひとり静かに細々と生を繋ぐ」のが精々かもと、ぼんやり空想するのが関の山だった。これも若気の至りの一つやろ。
小路幸也『モーニング』と『スローバラード』を続けて読んでいて、いろいろ考えてしまった。少なくとも自分は分別ある大人にはなれなかった。
人間として出来の悪い老人ではあるけど、老母より先に死ねない、くらいは分別しているつもりだ。そのあとは、連れ合いと互いに老老介護一直線やな。
今日の新聞に載っていた、鷲田清一さんの「折々のことば」《持てる力を、他に使いようがないまま無駄遣いしてしまう、そこにこそ青春の魅力が潜んでいるのかもしれません。/トゥルゲーネフ/青春の特権は、「なんでもできる」ではなく「なんでもできると思える」ところにあると、19世紀ロシアの作家は言う。何をしたって同じと感じる現代の若者にはやや酷かも。一方、すぐにこの世から失せる身、できないことは何もないと、怖じ気なく思えるのが老いだとすれば、それも捨てたものでない。小説『初恋』(沼野恭子訳)から》
今回の表題は、自分の中で大事にしている言葉が「死語」となってしまいそうな社会の風潮について、失くしてほしくないなぁと、ふと思っただけ。