一所不住



聴こえてきたのは森の音

たまたま Secret Garden を聴きながら、宮下奈都 『羊と鋼の森』 を読んでいたら、森の生き物たちの生命が躍動するざわめきが、からだの内部から湧き出てくるような思いにとらわれ、感極まる体験をした。

本はピアノの調律師になった青年の成長物語で、全編にわたって音楽愛溢れる内容となっている。調律師はこの禿頭ジジイも若い頃(があった)に憧れた仕事だっただけに、いつもとは違った小説の読み方になったかもしれない。音の聞き分けはともかく、チューニングハンマーの微妙なさじ加減で一つずつ音を作っていく職人的な作業は好きだし、自分に向いていたとも思う。耳のコンプレックスさえなければ。

主人公の外村に「どんな音を目指していますか?」と聞かれ、調律師の板鳥は原民喜をひいて「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが、現実のようにたしかな文体」と応えた。
まさに、羊と鋼の深い森の世界である。

紙に綴られた文字が、CDに刻まれた音の連なりが、濁りのない澄んだ水のように真っ直ぐ体の内へ入り込んできて、胸を震わす。たとえ老いた目や安価な再生装置であっても、心に響いた。
では、少し前に見た映画はなんであんなに不快な気持ちを味わったのやろ。

それは作り手の立ち位置、姿勢にあるのではないか。遭難者を助けた行為、異国に取り残された人を救い出した行為に対する敬意がなく、単なる映画の材料として娯楽的に消費してしまうあり方。ある事象から展開する創造力に欠け、ひたすら消費するにまかせている。
結果的に現実の出来事まで底の浅い作り物と同じレベルに貶められた。

前回長くなりすぎたので省略した、医師について考えてみる。映画の主人公だ。
主人公を際立たせるためか、もう1人の医師が出てきて、当時その地にありもしなかった遊郭で遊び呆けている。善玉に対する悪玉としての設定はあまりにも安易で、思わず目を背けてしまった。想像力の貧困さは表現者として致命的である。

医師の名誉のため『沖日記』など当時の記録で確認すると、樫野の小林健斎はまだ夜が明けやらぬうちから怪我人の手当てに奔走し、知らせを受けた大島の松下秀、伊達一郎、川口三十郎の3人はその日の午前中に樫野へ駆けつけ治療に当たった。山越え8キロの道である。松下、伊達両医師は沖周大島村長とともに取るものも取りあえず急行した。川口医師はあまりの怪我人の多さに、第2陣として追いかけた。4人とも不休の治療行為だった。

後日、治療費の照会に大島の医師3人は連名で「元々それを請求する気持ちはなく、ただ痛ましい遭難者を心から気の毒に思い、ひたすら救助一途の人道主義的精神の発露に過ぎず、薬価および治療代は義捐致したく存じます」と寄付を申し出ている。
樫野の小林医師も斉藤半之右衛門樫野区長を通じ沖村長へ、治療代の寄付を申し出た。
遭難者の救助や看護、食べ物や着物など惜しみなく提供した島の人びとと同じように、医師たちもそれぞれ篤志の人物だった。
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by rurou-no | 2015-12-17 17:25 | 言葉・本
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