「つんぼ」は差別用語として新聞掲載禁止、テレビ・ラジオ放送禁止と冷たい仕打ちを受けているけど、つんぼ本人が使う分には誰も文句は言えないはずやろと「つ」始まりのタイトルに決定。
生まれつき右の耳が聞こえず、子どものころはよく「つんぼ」といわれた。それで特にいやな思いを味わったことはない。つんぼやから聞こえにくうてもしゃぁない、とそのまま受け入れていた。。
おまけに中耳炎で、小学生のときは右耳を黒い袋で包んでいるのがふだんの姿だった。
10年前の秋までは多少の不都合はあっても、なんとか左耳だけでやってこれた。
話が聞こえなくて、なんとなくつんぼ桟敷(これはれっきとした劇場の用語)に置かれていると感じることはあっても、もともと人と群れるのは好まない性質だったので疎外感も苦にならなかった。
ところがどっこい、原因不明の突発性難聴というやっかいなものに取り付かれてしまい、〈聴力喪失→中途半端な快復+止まない耳鳴り〉が日常となった。耳の中に蝉を飼い続けて10年だ。
補聴器がないとほとんど聞こえないくせに、補聴器に違和感があり出かけるときだけしか付けない。よって家では連れ合いが大変な思いをする。
補聴器の助けを借りても聞こえにくいため、出かけるのが億劫になった。友だちと会うのすら面倒になってきた。ましてや大勢の人が集まるところなんて、頭が痛くなるのでとても行けない。
民博の広瀬浩二郎准教授は13歳で失明したそうだ。『民族学』誌上で、色気=色の気配の作品制作を報告している。「さわって創る」過程で、「視覚を使わない開放感」=「めくらめっぽう」の醍醐味を体感した、と記していた。
広瀬さんは、眼を使う人を「見常者」、視覚に障害のある人を「触常者」とよんでいる。「観察」に対して「触察」という言葉もなるほど、と肯いた。
三宮麻由子さんの場合もそうだが、新しい世界の捉え方を教えてくれる。
この禿頭ジジイも、頭の表面を光らせているだけでなく、中身の方をもっと磨かんとあかんなぁ。