おととい投稿していて、ふと思い出したことがあった。
田舎は人口が少ないため出会う人の数も限られており、交わす言葉にも驚くほどの違いはない。近ごろ流行りのキーワードである「多様性」に欠け(絶対数が少ない)、異質なものが相互に影響し合うことによってもたらされる果実を得られないまま、同じであるというだけに意味を見出す退屈な日常が延々と繰り返されていく。そしてあえて変化を求めない姿勢が停滞と疲弊を生み出す。
18年間そんな土地で過ごし、都会へ出てみるとまるで別世界だった。そこでは何でもやりたいことができる、思い通りになる、と勘違いして舞い上がってしまうくらい、さまざまな刺激に満ちていた。どこへ行っても知らない人で溢れていた。それが却って重い束縛から解放された気分を味わせた。
前講釈が長くなるといけない。
今日のお題「自分」について。この場合の「自分」は「あが」のこと。つまり「我」「己」「手前」である。
会話で自分のことを男だと「あし」「ぼく」「おれ」「わし」「わい」など、改まって「わたし」になるくらい。
ところが東京に出て、「ぼくは」というところを「じぶんは」という人に会った。今でこそそうした喋り方をする人種が一部に(元自衛隊員や体育会系)存在すると知っているが、初めて耳にしたとき「なんや、こいつ変やなぁ」と感じたバランスの不安定さは、なかなか慣れなかった。
この「じぶん」という言い方は映画で知った限り、軍隊用語かもしれない。
その違和感が抜けないうちに京都で会った人は、相手のことを「じぶん」と言うではないか。「きみは」とか「おまえは」と同じ使い方で「じぶん~するか」となるからややこしい。その「じぶん」は自分のことなんか、相手のことなんか高度な解釈を要求される。これは大阪でも使われるらしい。
「じぶんは~です」「じぶんなぁ、自分のことをじぶんなんておかしいでぇ」「きみこそ、人のことをじぶんなんて日本語としてどうかと思うよ」「なにゆうてるねん、じぶん(自分)のことはじぶん、じぶん(相手)のことはじぶん、でええんやんけ」てな会話は成立するんやろか。
日本語は奥が深い、と「自分」問題で悩んでいた時分の自分が懐かしい。