毎月18日に近くの寺で坐禅させてもらっている。
「只管打坐」とは、道元さんの教え『正法眼蔵』にある言葉で「ただひたすら坐る」こと。何も考えない。何も求めない。
生まれ育った紀伊大島にある3つの寺は臨済宗で、対岸の串本や出雲、西向なども同じ宗派の寺だ。ここ潮岬だけが曹洞宗である。古座にある曹洞宗の寺は、現在無住となっている。
臨済禅は「公案」といわれる問答が行なわれるが、曹洞禅は壁に向かってただひたすら坐る。
初めて坐禅の会へ参加したとき、『坐禅のすすめ』と題した小さなリーフレットをいただいた。
合掌から始まる坐禅の作法が説明されている。坐る両隣の人へ挨拶する「隣位問訊」→向かいの人へ挨拶する「対坐問訊」→「結跏趺坐」か「半跏趺坐」→「上体の作法」→「手の作法」(法界定印)→「目の作法」閉じてはいけない→呼吸「欠気一息」→「口の作法」舌の位置→「左右揺振」上体を左右に揺する→「思いをはなつ」→「止静鐘」合図で始める。そして鐘の合図で終わると堂内をゆるやかに、静かに歩行する「経行」。
曹洞宗の大本山「永平寺」は修行の厳しさで知られている。野々村馨『食う寝る坐る永平寺修行記』は著者による1年間の修行体験を記したものだが、住職に聞いた修行時代の話は本の内容そのままだったので、その超時代、超世俗の修行が本当らしいと唸るしかなかった。
小生も若い頃は永平寺の修行に興味を持ち、体験してみようかと思ったこともあったが行かなくてよかった。ひ弱な心と体では、せいぜいが足の痺れと格闘する一般向けの坐禅の会で十分だ。
このたびの大震災では、地域の寺が避難所の役割を果たしたところもあったそうだ。死者・行方不明者が23000人を超える事態を前にして、宗教者のあり方もまた問われていると思う。亡くなった人の弔いはもちろんのこと、生き残った人の心のケアが重要な仕事の一つになるだろう。
こんな時、ただひたすら坐るだけでいいのか、との迷いに囚われることもある。そやけどやっぱりできることをひとつひとつやっていくしかないのや。