何のつもりもなく、気ままに思いついたことを書いてきた。ただひとつの決め事は、タイトルをしりとりしよう、と。
振り返ってみるに、むかし語りが多くなっているのはタイトルの言葉から連想する内容は、どうしても経験したことを中心に考えをめぐらすせいだからで、薄っぺらな自分をあからさまにしてしまう気恥ずかしさをともなうものだ。実に恥ずかしい。
と、こんなことを改めて思ったのは昨日、山田稔さんの「北園町九十三番地ー天野忠さんのこと」を読んだため。この偉大な無名詩人にして「20世紀のいけず老人」天野忠は73歳の誕生日に
「この世の至極浅い水面をポチャポチャと事もなく泳いできただけの老人でも、人並みに疲れきった深刻な皺だらけの顔になっている。」と書いている。若輩はただ頭を垂れるしかない。
天野忠がいた京都に20~30代のころ住んでいた。本の向こうで街の風景や匂いが鮮やかに甦ってきた。俗に言う「青春」時代だ。「青春」なんて書くと明るく爽やかなイメージだが、私の場合は「真っ暗」だった。というのも当時の出没先といえばジャズ喫茶の暗がりであり、映画館の暗がりで、運営に参加していたフリースペースも真っ暗な空間だった。さらに生業になったのは劇場の暗闇。何もかも真っ暗やったなぁと笑ってしまう。
「朱夏」の自覚があまりないまま「白秋」を過ごしている今、さてこれからどうやって生きていこうか、思い出に生きる「玄冬」を無事に迎えられるのやろか。ともあれ皮肉と諧謔に満ちた言葉を使いこなせる老人に一歩でも近づきたいものである。
引用の引用になるが天野忠の詩から「動物園の珍しい動物」冒頭の4行と最後の2行を引用。
セネガルの動物園に珍しい動物がきた/「人嫌い」と貼札が出た/背中を見せて
/その動物は椅子にかけていた/ (中略)
/昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた/雨の日はコーモリ傘をもってきた。