一所不住



ホーキ星

1970年代、新宿に 「ホーキ星」 という名の店があった。
そこは 女性解放運動の拠点であり、女性の新しい生き方を考える場であった。
銀座にあった「3ポイント」時代から知り合いだった スタッフや出入りする女性たちの
おかげで、私自身の精神が 解放された場所でもある。

古い因習が残る 田舎で成長した私は、知らず知らずのうちに 男とはこうあるべき
女とはこうあるべきという、男尊女卑の考え方に凝り固まっていた。
それは今思えば、非常に窮屈なもので 自らを枠の中に押し込めていたと言える。

そのことを気づかせてくれたのは、「ホーキ星」の女性たちである。
二十歳を過ぎてまもなく 彼女たちと出会ったのは幸運だった。
「男も自立しなきゃダメ!」 女の自立をメッセージとして発信していた その場所で
言われた。

一枚づつ殻を剥いでいくたびに、重い心が 確実に軽くなっていった。
それは 心を解放していく作業であった。そのまま性格も 開放的になっていく。

あの出会いがなかったら、どうなっていたのか。
私が、何物かから 救い出されたのだと思う。
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# by rurou-no | 2006-11-23 15:35

日本で一番古い

生まれ育った島は 近代史で重要な役割を果たしており、我が国で一番古いと
言われているものが 二つある。

一つ目は、洋式石造り灯台として スコットランド人 R.H.ブラントンによって建設され
1870年(明治3年)6月10日に点灯を始めた 樫野埼灯台。

そして二つ目は、更に時代を遡って 1791年(寛政3年)の出来事。 ペリーが浦賀へ
黒船で現れるよりも、62年も前に アメリカの商船レィディ・ワシントン号とグレイス号の
2隻が 大島近海を通りがかり、樫野のマエノ浜へ上陸して 水や薪を求め、村人と
交流したことが アメリカの公文書に記録されている。 
これが史実における 日米最初の接触である。

大島の沖合は 古くから海上交通の要所であり、同時に 航海の難所であった。
外国の船員はこの辺りを Wrecked Coast (遭難海岸)と言って 恐れていたそうだ。

のちに トルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇も この樫野埼で起こった。
ここから 日本とトルコの友好の歴史が始まる。

こうして書き出してみると 昔から外の世界へ向かって 開かれていた島だったことが
分かる。灯台ですら、外国船の航海の都合で造られたのだから。

そんな海を 毎日眺めて大きくなった少年は、遙か水平線の向こうに広がる
無限の世界へ 夢を馳せた。
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# by rurou-no | 2006-11-22 14:00 | 地域

花火には一家言あり

かれこれ 20年近く前からになろうか、毎年 片貝まつり へ行くのが
恒例となっている。そして、浅原神社へ 花火を奉納している。

新潟県小千谷市に片貝町というところがあり、例年9月9日 10日が浅原神社の
例大祭となっている。もともと花火師が多く住んでいたこともあって、秋の祭りには 
神社へ花火を奉納するのが 慣わしとなってきた。

この奉納煙火(と地元では呼んでいる)は、その年に打ち上げる花火を 自ら作り
台車に積んで町内を引き回し(玉送り)したあと 打ち上げていたそうだ。
打ち上げの時には お立ち台で、木遣り歌を唄う。
現在は 花火は注文して作ってもらうが、玉送りと木遣り歌の行事は残っている。

花火は ひと玉づつ名調子のアナウンスによって、メッセージが読み上げられた後
打ち上げる手筈となっている。
誕生祝いから始まって、成人の祝い、結婚の祝い、新築祝い、厄年満願、還暦祝い、
追善供養、古希の祝いなど およそ人生の区切りごとに花火を奉納する。

更に ここでは花火師の心意気を示すため、世界一大きな 四尺玉を上げている。

縁あって、私たちのグループでは 「銀山錦」という花火を 奉納させてもらっている。
花火には一家言ある者ばかりが集まって、毎年「銀山錦」の花を 片貝の夜空に
咲かせ続けている。

この「片貝まつり」は 決して巷に溢れる花火大会などとは違う。
花火が開く、その一瞬に 万感の思いを 人々が共有する場なのだ。
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# by rurou-no | 2006-11-21 16:08 | まつり

蘆雪からはじまる

串本にある無量寺に、応挙蘆雪館が併設されている。
高校の美術の授業で、ここに展示されていた 応挙蘆雪
作品を 見学に出かけたことがある。
このとき 私を構成する重要な一部分が 決定付けられた。

初めて、「本物」を目にした 瞬間だった。

江戸時代の絵画 円山派を代表する、円山応挙とその弟子が
描いたもの との説明を受けた。
私は 「その弟子」の絵 に強く魅かれた。 
「龍虎図」 それぞれ襖4枚づつに、龍と虎の絵が描かれている。
絵を前にして、えもいわれぬ感動をしたのであった。

後年、応挙と蘆雪の絵が数多く残されている 但馬の大乗寺へも
行ってみた。改めて その素晴らしさを再確認することとなった。

名コレクター ジョー・D・プライスをして、「自分のコレクションを
擲っても手に入れたい」とまで言わしめた 長澤蘆雪の「虎図」。

こんな宝物が すぐそばにあるという喜びと、その存在があまり
知られていない不満と が入り交じって、複雑な心境である。
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# by rurou-no | 2006-11-20 14:58 | 美術

連れ合いのブログで、目出度く いろは歌が完結した。
今度はこちらで 真似てみようと、単純な思いつきで いろはの「い」から。

「い」のつくことばを いろいろとかんがえてみたが いっぱいあって いつまでも
きまらず いらいらして いがいたくなった いきあたりばったりで いいかげんな
いちごんや いみのない いいまわしでは いけないとおもい いろどりよろしく 
いのいちばんには いろはうたの いいだしの 「いろ」 からはじめることにして 
いっけんらくちゃく めでたしめでたし。

小学校の図工の時に、色の三原色は あお あか きいろ と教えてもらった。
正しくは 藍(シアン) 紅(マゼンタ) 黄(イエロー) が、絵の具の三原色と
なっているそうだ。全部重ねると 黒くなる。
それとは別に、光の三原色があって 青(ブルー) 緑(グリーン) 赤(レッド) で、
俗に 「BGR」という言い方がされる。全部重ねると 白くなる。 

この BGR 3つのフィルターさえあれば 基本的にはどんな色でも作れる。
そうして、舞台照明の仕事を 長い間してきた。
「色」のおかげで おまんまが食べられたわけである。

その昔、「色」は 情人(恋人)や情事(恋愛)という意味でも使われていた。
仕事の現場では 色使いが得意であったのに、もう一つのほうの色には とんと
縁がなく不得手であったのが 残念でならない。
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# by rurou-no | 2006-11-18 15:13 | 言葉・本

酩酊船

あの日、灰燼となり 友とともに消えてしまった場所の名は 「酩酊船」。
云わずと知れた アルチュール・ランボオの 「酩酊船」 からきている。

わずか数年間だけの詩活動で、輝きを放ち消えてしまった 激しい詩人は
ある意味では ヒーローだったのかも知れない。

10年ほど前、「太陽と月に背いて」という映画を観たことがある。
ランボオとベルレーヌの ホモセクシャルな関係が描かれていた。
事実はともかくとして、「やっぱりそうやったのかぁ・・・」と妙に納得した覚えがある。

ランボオの詩から借りた店の名前で、京都の木屋町に「地獄の季節」があった。
ここは 友人が行きつけの飲み屋さんで、「いま地獄におるんよ、出てこんね」と
電話がかかってきたりするから面白い。

果たして 飲みすぎて地獄の気分を味わうのか、はたまた天国へ行けるのか
酒飲みにとっては 酔っ払えさえすればどちらでもいいらしい。
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# by rurou-no | 2006-11-15 12:23

ボンテン

この季節になると、11月に突然消えてしまった 友のことを思わずにいられない。
「梵天」を自称していた彼は、大学を中退し ドロップアウトした。

デイジー・ガレスピーが好きで、彼自身もトランペットを吹いた。
ガレスピーと同じように ラッパのところを少し上に曲げた愛用のペットを
いつも手にしていた。

フリースペースを自ら運営するべく、古い家を借りて 活動を始めた矢先だった。
11月の寒い夜、未明に出火した炎は 大きな家を焼き尽くすほど猛威を振るう。
知らせを聞いて 早朝に駆けつけた時には、焼け跡に 燻ぶる煙が立ち昇って
いるだけであった。

その時から、彼は行方不明になったままである。
一方で、身元不明の焼死体が 残されていた。

この2つの事実を 1つのこととして考えたくなかった。
現実を受け入れられなくて、葬儀にも墓参りにも行かないまま 日が過ぎた。

今でも、ある日ひょっこりと 彼が現れそうな気がしてならない。
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# by rurou-no | 2006-11-14 14:01

バクさんの死

2年前、退院したばかりのところへ 友人の死の知らせが入った。
胃がんだった。

初めて会った時、彼はまだサラリーマンをしていて スーツ姿だったのを
覚えている。
私たちが共同で運営していた、フリースペースに 出入りしているうちに
会社を辞め、ドロップアウトしてしまった。

20代のころは よく一緒に遊んだ。
毎年夏になると、富山県の山奥の廃校になった小学校で 子どもたちと
合宿する「野草塾」へ スタッフとして2人で出かけるのが恒例だった。

彼の先祖が 「風の盆」 で有名な、八尾の出だというので 時期はずれの
静かな八尾の町を訪ねたり、演劇祭のシーズンは 世界中から集まる人で
賑わう利賀村へも 時期はずれに出かけ、淋しい山里を歩いたりした。

これまで何人もの 親しい友人の死 に、向き合ってきた。
人間 生きている限りは、死者を見送り続けることから 逃れられない。
どの死も かけがえのないもの。しっかりと受け止めるしかないのだ。
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# by rurou-no | 2006-11-13 16:01

公開自主講座「公害原論」

宇井純さんが 亡くなったそうだ。
60年代より 「公害問題」に取り組み、現在 盛んに言われる「環境問題」の
先鞭をつけた。

彼は常に被害者側の視点から 「公害」が生み出される構造を明らかにして
問題の本質を炙り出した。
事実の隠蔽を謀ろうとする企業や行政、御用学者の嘘を暴き、その反社会的
ともいえる行為を 批判し告発する。

水俣病をはじめとする 数々の「公害」は、その因果関係が解明されているにも
関わらず、企業や行政は、それを認めようとせず 逃げ回るばかりである。
多くの死者や 病気で苦しむ人を出しているのに だ。
その上 国内で「公害問題」が クローズアッップされると、東南アジア諸国に
工場を建設し 「公害」を輸出する愚挙にまで出た。

こうしたことは、いまだに繰り返し行なわれている。

「公害」の学習をしていた者にとって 彼の存在は大きかった。
学者の良心を 身を以って示してくれた。
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# by rurou-no | 2006-11-12 13:37

上方落語

殊のほか 上方落語を愛好する1人である。
大阪に住んでいた頃は、地域寄席の常連であった。

耳が聞こえなくなってから、落語会へ足を運べなくなるのかと思うと 残念で
ならなかった。

子どもの時分から、ラジオやテレビでやっていた 演芸番組が大好きだった。
上方四天王と言われた、松鶴 米朝 文枝(小文枝) 春団治 の大師匠らが
働き盛りで、脂が乗り切っていた頃である。

大阪へ転居してからは、初めの内こそ NGKで吉本の漫才や新喜劇を楽しむ
こともあったが、いつしか地域寄席で 落語を聴くのが定番となっていった。
寄席通いが止められないのは、放送では15分くらいに省略されていた噺が
30~40分、長いのになると1時間を超えて演じられ じっくりと聴けるからに
他ならない。マクラの楽しみもある。
それに古典から創作まで、様々なネタが掛けられる。

少し聞こえるようになるのを待ちかねて、出かけた。
まず、大きなホールでマイクを使った会では 電気機器を介在しているせいか 
聞き取りにくくて 周りの人と一緒に笑えないのが悔しい。
次に行った、小さな会の生の声は 良く聞こえた。
さすがに噺家はプロである。口跡よろしく言葉が明解で聞き取りやすい。

やれやれ と、ひと安心したところで 田舎へ引っ越ししたため
また、寄席通いが出来なくなってしまった。
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# by rurou-no | 2006-11-11 12:29 |


一瞬を、永遠に
S M T W T F S
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