山頭火である。
自由律俳句の代表的な俳人で、旅と酒をこよなく愛した種田山頭火。
俳句仲間の好意に甘えて酒をたかり、返す当てのない金を借りて旅の人となる、どうしようもない人である。
遠くから見ている分には面白い存在だが、身内にこんな人がいると困るだろうと想像する。
ましてや知らん顔をしててもいいのに、放っておけないばかりに世話を焼いてしまう友人となると「迷惑やけど愛すべき人やし」、という感じか。ついつい手を差し伸べてしまうのだろう。
ともあれ、その人が詠む句は味わいがあって大好きになってしまった。
前にもここで触れたと思うが、山頭火が歩いた旅程を追いかけるように辿ったことがあった。
「あぁ、ここで、あの句を詠んだのか」と悦に入ったりした事を覚えている。
(自嘲)《うしろすがたのしぐれてゆくか》 は約80年前のちょうど今ごろの時期だったはずだ。
場所は福岡県八女市といわれている。
時雨が降る中を歩いて行く我が身を、もうひとりの自分が見ている。自堕落で
《どうしようもない私が歩いている》 のだ。 どこまで行っても
《まっすぐな道でさみしい》 。
山頭火は曹洞宗の寺で出家得度したれっきとした僧である。
「托鉢修行」と句作、そして酒に溺れたの生涯だった。
年の暮れになって、山頭火の句にしみじみとしている。
今年は3月に東北大震災の大津波と原発事故があり、9月には台風12号が紀伊半島を襲い、山津波と川の氾濫が大きな被害をもたらした。
「一陽来復」 陰が極まって陽に返る。悪いことが続いたあとは、良い方向に状況が変わっていってほしい、と願う。