一所不住



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シーベルト

福島第一原子力発電所の事故によって誰もが覚えてしまった「シーベルト」単位。
これは、人が放射線を受けたときの被曝の大きさの単位、という理解でいいか。
当初は数字を「マイクロシーベルト」で発表していたが、今はその1000倍にあたる「ミリシーベルト」になっている。それだけ状況は悪化しているということだ。

ついでに、放射性物質の「半減期」という文字もよく目にする。
これは、放射性物質が放射線を出す能力(放射能)が半分に減少するまでの時間を表すが、単純に2倍すれば全部なくなるわけではなく、残りの半分が同じ時間をかけてやっと半分になる。さらに残りが同じ時間で半分、となかなかゼロにはならない。
ちなみに人体へ影響を及ぼすとされるヨウ素131の半減期は8日となっているが、ほとんどなくなるまで半年ぐらいかかることになる。
セシウム137の半減期は30年だから、私たちが生きている間は存在し続ける。

事故は進行中で、最悪の事態を回避できたわけではなく、まだ綱渡りをしている状態だ。
現実に放射性物質は空中へ飛散しており、放射能汚染水が海へ流れ出ているのを止められないままだ。しかもどれだけ漏れたのかすら分かっていないのだ。
原発はいったんトラブルを起こしたら暴走して手が付けられなくなる極めて危険なものである。

先日、東京電力は「工程表」なるものを発表したが、あれは内部の努力目標を示しているに過ぎず、対外的な説明の役割を果たしているとはいえない。
少なくとも、最悪のシナリオを想定し、それを防ぐために何をするのか、それをするにはどういうリスクを伴うのか、現状はどの段階にあるのか、つまびらかにするべきである。

政府も避難区域を指定するにあたって、なぜ避難する必要があるのか、どれだけの期間になるのか、もとの地へ戻れるのか戻れないのか、きちんとした説明がないままでは不安を払拭できないし、よからぬ風評が広がるばかりである。

それにしても首都圏に暮らす人たちは冷たくはないか。いったいどういう了見なんや。
近代文明を享受するため本来なら自らが負うべき危険を代わりに引き受けてくれていたのが、このたび避難を余儀なくされている人らである。返すべき恩を忘れてやしないか、と声を大にしたい。
他の地域の繁栄のために犠牲になり、さらに生活のすべてを奪われるなんて、こんな理不尽なことはない。
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by rurou-no | 2011-04-30 14:43

テレマカシー

「自分はおなかがすいていても、1杯のご飯を人に差し出す。これを人助けという。鍋いっぱいの食べきれないご飯を、人にわけてあげる。これは人さまがお前を助けてくれたにすぎないんだよ」
先日、新聞に紹介されていた「姥姥語録(おばあちゃん語録)」という中国でベストセラーになっている本から拾った言葉だが、「そういうことなんや」と大きくうなずいた。

3.11以後、国内のみならず世界中から被災地へ支援の手が差し伸べられている。義捐金集めも競争するかのようにいろんな団体が取り組んでいる。まことに結構なことである。
ここで私たちが心しなければならないのは、支援も義捐金も被災者を助けているのではなく、被災者から助けてもらっているのだということを忘れてはならない。
小生なんぞが偉そうに言うまでもなく、現場で汗を流しているボランティアならとうにわかっていると思うが、にわかに増えた慈善家の皆さんにもそのことを気づいて欲しい。

そこで「テレマカシー」。インドネシア語で「ありがとう」を意味する。
韓国語では「カムサハムニダ」、タガログ語(フィリピン)では「サラマット」、タイ語では「コップンカー」、スワヒリ語(ケニア)では「アサンテサーナ」、フランス語では「メルシー」、イタリア語では「グラッチェ」、スペイン語では「グラシアス」、ポルトガル語では「オブリガード」、オーストラリア英語では「サンキュー」、など外国へ行ったら挨拶と感謝の言葉は、いかに語学の才がない小生でも覚えて乱発した。ちなみに生まれて初めて覚えたのは「オオキニヨー」だった。
ところが、大学で第2外国語としてのロシア語「スパシーバ」はとうとう使う機会がなかった。

25年前の今日、1986年4月26日、旧ソビエト連邦(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が爆発した。
2度とあってはならない悪夢の出来事だった。しかし発電方法が違うから、とわが国はその事故から学ぼうとしなかった。そして福島第一原発の事故を引き起こした。チェルノブイリは10日で収束したが、フクシマは1ヶ月半経ってもまだ進行中で、どこまで被害が拡大するか予測もつかない。

事故後ウクライナでは、甲状腺がんを発症させる子どもたちが増えた。その子らからクリスマスカードをもらったことがある。絵とともに書かれていたメッセージは、大学へほとんど行かないままだった小生にはロシア語かウクライナ語かすら判らないという情けないありさまで、カードを手にして「スパシーバやで」とつぶやくしかなかった。
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by rurou-no | 2011-04-26 14:47

ルサンチマンを超えて

外来語のカタカナを乱用するのは感心しないが、体の中へ澱のように溜め込んでいることを否定できない「ルサンチマン」について、3.11以来ずっと考えていた。
弱者はどうあっても浮かばれない。ダメージを受けるのは常に弱い立場の方である。

この言葉に初めて触れたのは20代のころ、週刊の書評紙「日本読書新聞」紙上でだったと思う。
デンマークの哲学者、セーレン・キェルケゴールへの論評か、あるいはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェについての論評か、それとも第三世界の革命運動を紹介した本の解説か。

ルサンチマンとは抑圧された状態にある社会的弱者が抑圧者や権力者に対して抱く、非難、怨念、嫉妬など複雑に絡み合った感情、と自分なりに解釈している。概念を十分に理解しているわけではないが、朝鮮民族の「恨」(ハン)が似ているような気がする。
どうやら小生の考えの根っこには、こういったものがあるのだろう。

資本主義社会にあっては弱者と強者の立場は固定化され、公平に与えられてしかるべきさまざまなチャンスすら得られないまま、自由競争の理念の中へ放り出されてしまう。
そこでは、正直者はバカを見る「世間」という揺るぎないシステムが出来上がっているのだ。

このたび地震、津波、原発と3重の災害を被ったのは、東北地方にあってなお中心都市から離れた過疎化と住民の高齢化が進む漁業を主な生業とした地域だった。関東圏の電力をまかなう福島第一原発はまさにそういった地にある。

数十万人にのぼる被災者の救援や原発への対応、そして被災地の復興は、安全・安心を保障された東京で計画されている。
彼らはその日を生き抜くのがやっと、の人のことなど想像もできないに違いない。
リーダーの資質を疑われる「イラ菅」首相への批判は、役人どもが仕事をしない言い訳にと利用する恰好の材料だ。さらに「これは〇〇省の管轄」とか、「これは国の仕事」「県の仕事」「市町村の仕事」などと、縄張り争いならぬ縄張り逃れに始終している。

天災は弱いところを狙ってやってくる。自然は相手を選ばないが、社会のシステムが弱者と強者を別けているのだ。そして現場と関係ないところで再建が進行していく。
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by rurou-no | 2011-04-23 15:27

リバイアサンとリテラシーを考える

「り」から始まる言葉を考えたら、「リバイアサン」「リテラシー」というカタカナ2語が頭に浮かんだ。
「リバイアサン」は17世紀イギリスの哲学者、トーマス・ホッブズの政治書、国家論として知られるが、ここでは旧約聖書に登場する「海の怪物レヴィアタン」から連想した。
「リテラシー」は近ごろ目にする機会が多くなった言葉で、読み書きの能力、ひいては情報の活用能力という意味合いで使われている。

ホッブズによれば「リヴァイアサン」は国家であり、または海の向こうからやってくる外敵であった。
2011年日本における「海の怪物」は、すなわち大津波であろう。
3月11日午後2時46分、平安な日の何もかもが根こそぎ奪われた。
三陸沿岸地域の人びとはたびたび津波の被害に遭い、備えを十分にしてきたはずであったが、自然の猛威の前では非力でひとたまりもなかった。
人間の生死は僅かの差でしかなく、残された人はそれでもこの地で生きていくことになる。

そしてもとの地へ戻れない人びとも確実に存在する。
首相が「原発周辺は10年、20年住めない」と話したことが問題にされているが、発言を追及している方が間違っている。
チェルノブイリ周辺は25年経った今でも、半径約30キロ内は放射能汚染がひどく立ち入りが制限されている。原発とはそういうリスクを伴ったものなのだ。
避けられない現実を直視し、避難者とは帰れない可能性を前提にした話し合いをすべきである。

3.11後は情報の洪水が襲った。国全体が一種の興奮状態に陥り、悲惨な現場が映像や写真などを通して晒され続けている。
「逃げている人を津波が襲う」と活字で読んだそのままの映像がテレビで放映されていたそうだ。
ご飯を食べながら、お茶を飲みながら見てる人ら。テレビは次に避難所の被災者を写しただろう。
この国の人びとは実際の被災者より被災地の様子に詳しい、というおかしなことになっている。
そして時間の経過とともに関心は失われていくのだ。

どうか、生きている間ずっと被災者であり続ける人、がいることを忘れないでほしい。
16年前の神戸やて終わってしもた過去の出来事やないのやから。
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by rurou-no | 2011-04-19 15:56

楽土への遠い道のり

普段なら牛の歩みと役所の仕事は遅いものだと半ばあきれながらあきらめていたが、非常時においてもその得意技を封印することなく遅々として被災した方々の支援がはかどらないのは、歯がゆいばかりである。

昨日、「復興構想会議」の初会合が開かれたそうだ。
神戸のときには街の復興が優先されて、人は置いてけぼりをくったというのが実感としてある。
市街地は整備され建物が新しくなり、目に見えるきれいな街並を「復興」と喧伝されたが、実際はもとの土地へ帰る事もできず、生活を再建することもかなわず、孤独の内に亡くなった人が後を絶たなかった。
行政から見捨てられた人のなんと多かったことか。
どうか、今度は忘れられた人が1人も出ないよう願う。

ともあれ、災害はまだ進行中だ。原発の深刻な事態は回避できていないばかりか、原発事故評価尺度がチェルノブイリと同じく最悪の「レベル7」となった。
この期に及んでも政府と東電は、情報を公開し分かりやすく説明する義務を怠っているから、人びとの不安や不満は広がるばかりだ。

政治家、官僚、企業、学者が一体となった「原子力ムラ」、または「原子力マフィア」といわれる連中は既得権益を守ることしか頭になく、テメエらが何を仕出かしたのか見えていないのではないか。
コイツらのせいで、原子力の危険性を指摘し続けた真っ当な研究者たちは冷や飯を食わされた。
彼らの学者としての矜持は、学内での出世や潤沢な研究費と引き換えに研究の成果を取り引きしなかったことだ。

今さら言っても詮無いことやけど、40年前から再生可能な自然エネルギーへ取り組んでいたら、今ごろは科学技術の進歩著しいこの国なら、エネルギー政策先進国として世界をリードする立場にあったはずや。
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by rurou-no | 2011-04-15 17:14

たとえ一人の命すら

放射能は目に見えないからこそ怖ろしい。出鱈目やデマも含め氾濫する情報はどれを信じていいのか分からないため、疑心暗鬼が肥大するばかり。
そもそも1番目の当事者である東京電力の隠蔽体質は、事の重大さに甚だしく鈍感である。
政府もへたにコントロールを企図せず、情報はすべてオープンにしてリスクの説明をすべきなのだ。

私たちは原発というものをしっかり勉強して何がどう危険なのか見極め、リスクへの対処の仕方を自分で判断できるようにならなければいけない。
無知ゆえのバカな行動は慎まないと、周りの人にまで迷惑をかける。

福島第一原発は1号機から6号機まであり、世界中が注視しているのは1~4号機。4~6号機は定期検査で停止中となっている。
「定期検査」の文字で真っ先に思ったのは、地震が起きたとき原子炉格納容器の中に人がいたかもしれない、もしそうだったら無事に外へ出られたのだろうか、ということだった。

30年も前になるが、その仕事から帰ってきたばかりの知人から話を聞いたときは、あまりの驚くべき内容に言葉を失ったことを覚えている。人が使い捨てられ棄民化されている信じ難い実態は、その後読んだ堀江邦夫さんのノンフィクション「原発ジプシー」で裏付けられた。

定期検査時に原子炉格納容器内へ入って大量の放射線を浴びながら点検や清掃を行なうのは、下請け・孫請けの日雇い労働者なのだ。被曝して体を壊そうが何の保障もされない。裁判に訴えたところで、裁判官を懐柔するなど東電にとってはいともたやすいことだ。
人を人とも思わぬ大企業は、知らぬ存ぜぬで平気な顔をしてきた。

奇しくもこのたび、東電の社員は高くなった測定値を下請けの作業員へ知らせず被曝させた。
こんな非常事態でもそうなのだから、通常はどんなだったか想像できる。
30年前から変わってないやないか。

原発から10キロ圏内にあるはずの、津波で命を奪われた遺体は1ヶ月経っても手付かずのままで荼毘に付すこともできない(中には助け出せた命もあったと思う)。
たとえ一人の命をも手厚く葬ることすらできないのが「原発」の本質なのだ。
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by rurou-no | 2011-04-11 13:49


一瞬を、永遠に
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