一所不住



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木靴の樹

我が国も近年までそうであったように、この映画の舞台となったイタリアも同様であった。
19世紀末北イタリアの小さな村、封建的農奴制がまだ残っていた。ある農場で小作人として
暮らす4家族の倹しい生活を、四季の移ろいと共に描いた傑作 「木靴の樹」(1978年)。
監督の エルマンノ・オルミ が脚本、撮影、編集もすべて1人でこなした渾身の作品である。

出演者はみな現地の農民たちというから凄い。日常がドキュメンタリーを見ているかのごとく、
淡々と自然に繰り返されていく。貧しく厳しい暮らしながらも深い信仰心を持ち、お互いに助け
合いながら精一杯生きている。それぞれの家族に起こる小さな出来事。新しい生命の誕生や
収穫の喜び、苛酷ながらも確かな幸せもまたそこにあった。

タイトルとなったのは、そんなエピソードのひとつ。 
木靴を履いて学校へ通っている少年が、ある日その靴を割ってしまう。学校へ履いていく靴が
なくて落ち込んでいる少年を見た父親が、彼のためにポプラの木で新しい靴を作ってあげた。
ところがその木は地主の持ち物。無断で木を切ったからと、家族は村から追い出されてしまう。

地主の権力は絶対的なものだった。同情こそすれ抗議することもままならない他の3家族は、
村を出て行く家族を物陰からそっと見守るしかなかった。決してハッピーエンドではない。絶望
だけが支配しているのでもない。随所で、時代の変化が田舎の村にもじわじわと訪れる気配を
漂わせている。村を出る家族にも、微かな光明を感じさせているのだ。

全編が自然光だけで撮影されたとか。監督自身が祖母から聞いた話が基になっているそうだ。
封建的な社会ではどこにでもあった悲喜劇。それを大叙事詩として描いたエルマンノ・オルミ。
私たちは過去の物語としてではなく、21世紀を迎えた今も同じような問題を抱えている現実を
しっかりと見据えることが大事だ。そこからまた新たな物語が誕生するはずである。
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by rurou-no | 2007-08-31 10:02 | 映画

コンチキ号漂流記

ノルウェーの海洋考古学者 トール・ヘイエルダール が1947年に自らの学説を証明するため
南米ペルーからポリネシアへ向けて航海したときの記録 『コンチキ号漂流記』 は私の人生を
決定付けた一冊と言っても過言ではない。
人は誰でも子どもの頃に読んだ本で、自分の生き方に大きく影響を及ぼした一冊というものが
あると思う。私の場合は間違いなくこの本であろう。

人一倍大きな体の赤ん坊だったのでおぶるのが重いからと誰も子守をしてくれず(当時はまだ
子どもが子どもを子守する習慣が残っていた)、ひとりでほったらかしだったとか。本さえあれば
静かにしていたらしい。幼児期にいたるまで本が私の子守役だったのだ。 (今でもそうか?)

保育園や幼稚園に行かせてもらえなかったから、子どもでも1人で歩いて行ける距離にあった
小学校へ行き、入学する前から教室に座って上級生と一緒に字を習った。早く字を覚え、絵の
そばに書いてある字を読んでみたい一心だった。

小学校の図書室にあった『コンチキ号漂流記』を読んだのは、漢字もそれなりに読めるように
なった4~5年生のころだったと思う。毎日眺めていた水平線の向こう側に続いているはずの
海が、時間と場所を超えて一気に繋がった。地球(海)の大きさや広さを認識した瞬間だった。

ポリネシアの人々は東南アジアからメラネシアを経て、島伝いにポリネシアへ移住したと信じら
れていたそれまでの学説に対し、民族学的考古学的見地から南米から渡ったものとの確信を
得たヘイエルダールが、古代から使用されていたバルサ材でいかだを組み南米からポリネシア
へ航海に出た。3ヶ月かけてようやくポリネシアへと辿り着く。

この冒険譚は子どもの心に魔法をかけた。あらゆる「知らないもの」への思い、憧れ。
気が付いたら旅を生き、好奇心一杯で「知らないもの」を知りたいと、それだけで生きてきた。
その成れの果てがここにいる。本は罪なもの、そして愛しいものだ。
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by rurou-no | 2007-08-27 15:32 | 子ども時代

エル・グレコ

人々から「ギリシャ人」と呼ばれ、とうとうその名が定着してしまった エル・グレコ
本名を調べたら ドメニコス・テオトコプーロス(1541~1614)となっていた。
ギリシャ・クレタ島に生まれ、イコン画を学んだ後、イタリア・ローマへと渡り テツィアーノ
師事してヴェネツィア派絵画を学んだ。36歳の時宮廷画家への野望を抱きスペイン・トレドへ。

エル・グレコと初めて出会ったのは、倉敷にある大原美術館だったと思う。 『受胎告知』 この
多くの画家がモチーフとしている作品でも、その特徴が明らかである。細長く伸びた人物像が
独特の構図の中で描かれており、誰が見てもエル・グレコだと判るから親しみを感じるのだ。
その後、パリのオルセー美術館、マドリッドのプラド美術館などのコレクションとも出会った。

この「ギリシャ人」が後半生を過ごした、トレドという古都に興味を持ち出かけてみた。
スペインのちょうど真ん中に位置し、マドリッドとは鉄道で結ばれている。
先史時代から人が住み、中心都市として栄えた。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の文化が
共存、混在した。城壁に囲まれた町全体が歴史博物館の態で、15世紀のカテドラル(大聖堂)
など教会建築が、2000年も前からの都であった痕跡を残している。

タホ川に架かる13世紀に造られたサン・マルティン橋を渡って町へ入ると、そこは石畳の迷路
となっていた。少し歩くと広場に出て、また路地へ迷い込む。そんな繰り返しが心地良い小さな
町であった。次は城壁に沿って半周してみる。塀に手を当てて歩く。そうするとこの町が如何に
外敵を恐れていたか、守るべきものがあったかがよく分かる。

ふと、エル・グレコも描いた町の全体像を見たくなり、小高い丘に出来た町よりも更に高い丘を
探して登ってみた。まさに絵画的世界の光景が目に飛び込んできた。目のご馳走である。
こうして1日中、この小さな古い町を遊んだ日を思い出す。
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by rurou-no | 2007-08-25 14:42 | 美術

薔薇の名前

1980年にイタリアの記号論学者 ウンベルト・エーコ が発表した 『薔薇の名前』
中世の北イタリアにあるカトリック修道院が舞台になっている。
記号、隠喩、引用、暗号などが随所に散りばめられた難解な小説が1986年に映画化された。
監督 ジャン・ジャック・アノー  主演 ショーン・コネリー クリスチャン・スレーター
 
 1327年北イタリア山地にあるベネディクト派修道院で修道士の不審な死が相次ぐ。
 その謎を解いていく2人の修道士。鍵となるのはキリスト教徒にとっての「笑い」論争。
 笑うことを禁じられていた当時の修道士たち。禁書となっていたギリシャやローマの古典。
 怪死したのは挿絵画家。知の宝庫としての図書館の迷宮。異端審問。


綿密なる時代考証で建築物から衣裳、小道具、そして自給自足の修道士の生活に至るまで
徹底して14世紀の修道院を再現したそうだ。重苦しい雰囲気が全体を包んでいる。
キリスト教の歴史に詳しくないから、様々な記号や引用がさっぱり解らないながらも、映像を
追いかけるだけでも面白い。スクリーンの向こう側に14世紀の世界が広がっているのだ。

とりわけ図書館と書物の重厚さが印象的だった。図書館を牛耳る盲目の長老の名がホルへ
となっているのは、ホルへ・ルイス・ボルヘス からだというのは私でも分かる初級編。
テーマの構造が複雑なあまり、途中で置いて行かれそうになったものの心に残る映画だった。

『薔薇の葬列』 は実験映画の旗手 松本俊夫 が1969年に劇場用長編として撮った作品。
1960年代末期六本木のゲイボーイだった美少年 ピーター のデビュー作でもある。
スタンリー・キューブリック『時計仕掛けのオレンジ』(1972年)で、ピーターのメイクを
参考にしたそうだ。16歳のビジュアル系 ピーターの出現は、丸山明宏 以来の事件だった。
60年代の新宿、母親を殺し父親と寝る少年。虚実入り乱れたストーリーがスリリングに展開。
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by rurou-no | 2007-08-24 16:47 | 映画

心頭を滅却すれば

       心頭を滅却すれば火も自ずから涼し
信長軍から焼き討ちにあった、甲斐・恵林寺の快川禅師の言葉として伝えられている。

今年の夏の暑さは、「異常気象」なんて一言で片付けられないほど度を超していた。
観測史上最高気温40.9度を記録したのは8月15日、岐阜県の多治見市と埼玉県の熊谷市。
気象庁の観測での数字だから、実際は42~3度くらいまで上がっていたのではないかと思う。

さて、お馴染みの陋屋に暮らす筆者は、いかにしてこの暑さを乗り切っているのか?
そこで冒頭の 「心頭を滅却すれば…」 だ。果たして快川禅師の教えは、この暑さに勝てたか。
もちろんこの言葉は、単純に暑さ寒さのことだけを指して言っているのではないのだが、暑い
寒いは心が決めるものであるとの教えは、なんとなく理解しているつもりだ。

屋根だけがあり壁のない作業場で仕事をして、充分に熱せられた体で帰り着いた我が家には
エアコンというものがない。家全体が温室のごとく暖められ風が吹かない(冬にはすき間風が
よく入るというのに)。温度計は38度を指している。夜になっても36度より下がらない。

連れ合いはエアコンがないことを嬉しそうに周りに言い触らしているそうだが、そのたびに相手
から返ってくるのが 「死ぬよ!」 という警告らしい。
冗談ではなかった。とうとう軽い熱中症で倒れる。気分が悪く吐き気がして足の痙攣もあった。
最終的には点滴をしてもらって事なきを得たが、今でも体調はおかしな具合だ。

「心頭を滅却すれば…」のおまじないは効き目なく、水を被っても涼しいのはその直後だけで
すぐに汗が流れる状態に。もともと汗をかかない方の体質だったが、今年はひと夏で50年分に
相当するくらい流れ出たのではないか。今日は処暑、久しぶりの雨で32度まで室温が下がった。
これからの残暑(惨暑)を生きてやり過ごせるのか、ブログが続いていれば無事だった証だ。
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by rurou-no | 2007-08-23 15:35 | 言葉・本

野ざらし

松尾芭蕉「奥の細道」 以前、41歳の時に東海道を上り、伊勢~大和~京を回って、
復路は中仙道から甲州街道そして江戸へ戻った9ヶ月に亘る旅の紀行文 「甲子吟行」
     野ざらしを 心に風の しむ身かな     
と冒頭にあることから 「野ざらし紀行」 と一般的に理解されている。

本日のお題はそれとは関係なく、毎度おなじみバカバカしい上方落語 「野ざらし」(骨釣り)
 薄い壁1枚の長屋暮らし、登場するはヤモメのきぃやん。夜中に目が覚めると隣の部屋から
 おなごの声がする。はて?隣の先生も1人暮らしのはず。壁に穴を開けて覗いてみたら何と
 別嬪さんがいるではないか。あくる朝早速事情を聞きに行ったところが…。

 釣りが趣味の先生、大川の葭原でドクロしゃれこうべ野ざらしを見つけた。気の毒に思った
 先生が骸骨に酒を手向け、経文の代わりに句を詠んで供養した。そうしたら夜中に、お陰で
 浮かぶことができたからお礼がしたいと、別嬪のおなごはんが訪ねてきた。
 
 それを聞いたあわてもんのきぃやん、骨を釣ったら夜中におなごがやってくると早とちりし
 先生の釣り竿を持ち出して大川へ。歌を唄ったり踊りを踊ったり大騒ぎ、終いに1人芝居を
 始める始末。とうとう川へはまってしまった。

短いが賑やかな噺で爆笑間違いなしの、場の空気を解すのにもってこいのネタである。

男というものはアホなもので、たいがい何かを始める動機になるのが女にモテたいから。音楽
にしろスポーツにしろ最初はそれがきっかけ。きぃやんを笑えないから却って可笑しいのだ。
近ごろはお笑い系がモテるらしいが、こればっかりはセンスがないとねぇ。

自然界でも雌の気を惹こうと身を飾ったり、雌の前でダンスをしたり、果ては雄同士闘ったりと
涙ぐましい努力をしている雄たち。そんなところが、ご同輩よ!といとおしくなってくる。
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by rurou-no | 2007-08-21 14:46 |

イル・ポスティーノ

「イル・ポスティーノ」=「郵便配達人」というタイトルのこの映画は、言葉の映画だった。
1995年 マイケル・ラドフォード 監督作品。 音楽は ルイス・エンリケス・バカロフ
脚本に参加し主演もした喜劇役者 マッシモ・トロイージ が命を削って完成させた映画である。

 イタリア・ナポリ沖に浮かぶ小さな島が舞台になっていた。鄙びた漁村にチリから、世界的に
 有名な詩人が政治亡命してくる。島の青年マリオは自転車を持っているというだけで、詩人
 宛に世界中から毎日送られてくる、ファンレターの配達の仕事が与えられた。

 詩人が詠む詩の不思議な魅力の虜となったマリオは、詩人に教えを乞い言葉の隠喩の方法
 などを学んでいく。マリオは覚えたての隠喩を駆使して(実は詩人の作品を盗作して)、島で
 一番の美女の心を掴むことに成功する。詩は必要な人のものだと。
 やがてチリ国内の政情が変わり、詩人はチリへ帰って行った。

 マリオは詩人へ送ろうと、詩人が残していったテープ・レコーダーで島の音を録音することを
 思いつく。波の音、風の音、草の音、星降る夜の音、教会の鐘の音、そして母親の胎内の
 心拍音、島に暮らして見過ごしていた島の良さを再発見していくのだ。

 老詩人と若者の魂の交わり。豊穣な隠喩の言葉が満ち溢れ、なおも湧いて出てくる。
 
撮影が終わるまで、と心臓の手術を引き伸ばしていたマッシモ・トロイージは、クランク・アップ
した翌日、命が尽きた。41歳だった。まさに命と引き換えに創り上げた執念の作品である。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 ルキノ・ヴィスコンティ(1942) ボブ・ラフェルソン(1981)
原作は ジェームズ・M・ケイン 。夫殺しの妻と愛人、性と暴力のサイコでシリアスな内容。
「山の郵便配達」 1999年 フォ・ジェンチイ 監督作品。中国映画必見の名作。 
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by rurou-no | 2007-08-20 14:15 | 映画

黒声(くるぐい)

「乞食の国隆」と呼ばれていた盲目の路上ミュージシャン 里国隆 は奄美大島笠利町出身の
唄者である。村から村(島から島)へと放浪しながら道端で、あるいは宴席へ招かれて歌った。
戦後間もない沖縄へ渡り、進駐軍で賑わう急ごしらえの街の角で歌い、店で歌い、ハワイまで
歌いに行ったそうだ。

彼のCD 『あがれゆぬはる加那』 の写真は沖縄の何処かの町の通りだろうか、電柱を背に
座って竪琴を弾きながら歌っている。足元には空き缶が一つ置かれただけで、誰もその唄を
聞いている様子はない。

その次に出たCD 『黒声 クルグイ』 の方は、三弦を弾き語りしている写真が使われている。
どちらの風情も、まさにブルース・ミュージシャンそのもの。太くて低い彼の声もデルタ地帯の
カントリー・ブルースである。このようなたとえは、奄美の唄者としての里さんに失礼なことかも
知れない。悲しいかな奄美の民謡より先にアメリカのブルースの洗礼を受けたから、彼の唄を
初めて耳にした時「ブルースや!」と思わず唸ってしまった。

奄美の民謡は村ごとに歌の曲調や歌詞が違っていたりするが、里国隆の唄は更に異端である
ように感じる。祖父の膝の上で習い覚えた古いスタイルの奄美の島唄を歌い、自ら作った唄も
歌った。娯楽に飢えた島の人たちに歓迎され、女性にモテたそうだ。

路傍で歌う里さんの唄を聴いた沖縄一の芸人で、沖縄の芸能研究者でもある 照屋林助 は、
自宅へ連れて帰り彼の唄を録音した。そのテープを聴いた 竹中労 は、すぐに里さんに会いに
行く。56歳になっていた。その夏《琉球フェスティバル ’75夏》へ出演、レコード録音もした。

一時的に脚光を浴びたかにみえたが、本人は「俺は道の上で死ぬんだ」と言って路上へ戻る。
偶然とはいえ、こうして彼の唄声が記録されたのは奇跡的ともいえる幸運のたまものだ。
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by rurou-no | 2007-08-18 17:22 | 音楽

旅芸人の記録

ギリシャ・アテネ出身の テオ・アンゲロプロス が1974年に撮った 「旅芸人の記録」
映画史上に残る偉大な作品である。4時間弱の長編にも拘わらず、一瞬たりとも目を離せない
ほど密度が濃く集中力を求める内容で、その映像の美しさには圧倒された。

1939年から1952年までの13年間の、旅芸人一座11人の記録である。
これはそのままギリシャ現代史、苦難の時代と重なる。
ギリシャ田園劇を上演する一座には、古代ギリシャ神話が投影されている。

〈ギリシャ現代史〉〈古代ギリシャ神話〉この両方に明るければ、この映画の大きさや内容の
深遠さがより理解できたはずだが、残念ながらどちらにも疎いまま見た。それも四半世紀も
前のことである。それでも映像から感じ取れるものが多々あった。

映画は1952年軍事政権が誕生する直前の選挙カーのアナウンスから始まる。カメラが右へ
パンすると1939年極右独裁体制の時代になっていた。この映画が語られるとき必ず同時に
語られる360度のパン。長回し。カメラがパンした先にあったものに対する驚き。時代すら一つ
のシーンの中で簡単に超えて、その状況を映し出す。

ムッソリーニ・イタリア軍の侵攻、ヒトラー・ドイツ軍の占領、イギリスの進出と圧政、左右対立
による内戦、暗い世相が絶え間なく続いて、空は晴れることがない。
そうした時代背景がそのまま旅芸人一座の苦境として圧し掛かる。まるでドキュメンタリーを
見ているかのように、ひとつひとつのエピソードがリアリティある歴史ドラマとなっていた。

テオ・アンゲロプロスの大抒情詩。この映画を見た時の、心の動揺と充足感は生涯忘れない。
「旅芸人の記録」は映画の到達点を感じさせてくれるとともに、その大いなる力を知らしめた。
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by rurou-no | 2007-08-17 15:27 | 映画

やっとこさ、やり終えた

昨日14日は、高校卒業後35年目の同窓会だった。
2年半前Uターンで帰った直後くらいから、「同窓会やろらいよう」と声をかけられていたが
なかなか踏み切れないままだった。今年の正月に同級生と会った時にもその話が出て、
35年という区切りでもあるので機が熟してきたと判断し、とうとう重い腰をあげた。

動き出したのは2月から。まず地元に住んでいる同級生に準備会を呼びかけ、世話役雑用係
としてに5人が集まった。そして3月から月に1回会合を重ね半年、やっと当日を迎えた。
私ときたら会場準備や買出し、当日の打ち合わせなどをすることになっていた12日(日曜)に
熱中症で倒れ、すべて他の4人に依存する体たらく。肝心な時に役立たずであった。

集合は学校。在籍当時とはすっかり様変わりした校内を巡り、資料室、IT教室など見学。
その後、学校の裏にある神社へ移動。社務所の大広間を会場に旧交を温めた。
35年ぶりとはいえど同じ時間で年齢を重ねてきた者同士だから、誰か判るやろかとの当初の
心配は杞憂に終わり、会った途端に時間を超えてしまった。

1人づつ順番に近況を報告したあと懇談。懐かしさで話は尽きず、あっという間に予定の時間。
会場の雰囲気が最高潮の時に中締めしなければならなかった。ここまで3時間半。
そのまま同じ場所で2次会。ノンアルコール、ノースモーキングの1次会から大人の時間は
酒、煙草も自由に。人数を数えたら1次会31人から約半数の16人が残っていた。2時間。

さらに1人加わって、3次会は同級生の1人が経営するダイビング・ショップへ移動。ここでも
また1人合流。みんな酒量が増えるにつれ際限なき状態になってきたので、2時間が経った
ところで中座。いったい何時まで騒いでいたのやら。愛しき酔っ払いたちは、無事に我が家へ
帰り着いたのだろうか。ともかくみんな喜んでくれていたので、世話役冥利につきるというもの。
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by rurou-no | 2007-08-15 14:33


一瞬を、永遠に
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