一所不住



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水の駅

現在京都造形大学で教鞭をとっている 太田省吾 は、かつて 〔転形劇場〕 を主宰していた。
京都で暮らし始めてまもなく、この東京の劇団の公演で驚くべき体験をする。

1977年10月 川村能楽堂 「小町風伝」 主演 佐藤和代 
能舞台で能楽「卒塔婆小町」をモチーフにするという大胆な試み、そして老婆の饒舌な語りがすべて沈黙劇として演じられた。2時間余の芝居には一言も台詞がなかった。芝居は台詞があって初めて成立するものだと思い込んでいたから、驚きと感動で忘れられない舞台となった。

1983年5月 オレンジルーム 「水の駅」  出演 大杉漣 佐藤和代 他
舞台は共同の水場らしきところ。真ん中に水道の蛇口がひとつあるだけ。ここにいろんな人が来ては去って行く。やはり誰も一言も喋らない。

1985年10月 芦屋ルナホール 「地の駅」
廃墟に少女がひとり。そこを通り過ぎる人をただ眺めているだけ。最後に現れた女の人を見つけると、駆け寄って抱き合う。このあとの「風の駅」とで、駅三部作となる。

〈5メートルを2分かけて歩く〉ゆっくりした動きで、舞台は進行していく。
必然的に時間感覚と対峙せざるを得ない。そして空間と存在について考えさせられる
私たちは《微速》と呼んでいた、超スローな動作は身体的には非常にキツイものである。
その上、台詞を発することが出来ないなんて、役者には苦行としか言いようがない。

喋らないからこそ、見えてくる言葉がある。凡百の言葉よりも一つの動きで表現できることが
ある。台詞を排するという演劇人としての冒険と野心は、大いなる成功を収めた。
この《沈黙劇》は異言語間の壁を超え、外国公演でも大好評であったと聞く。
結局この3作品しか観ていないが、その舞台風景はしっかりと記憶して忘れない。
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by rurou-no | 2007-04-30 13:18 | 演劇・ダンス

桑の実

「桑の実」 は、1993年に公開された韓国映画。チャン・インチョル監督作品。
 山の麓にある鄙びた村に、一組の夫婦が倹しくも幸せに暮らしていた。夫が病気になり、
 妻は隣村の漢方医に往診を頼むが、貧乏で治療代が払えないため断られる。妻は思案
 にくれ、好色な医者に身を任せる約束をして往診してもらう。その後も、高価な漢方薬や
 栄養をつけるための食材費を賄うために、村の男たちに体を売ってお金を稼ぐ。


いわゆる〈コリアン・ポルノ〉と云われている映画。ポルノといっても儒教の教えが残っている国
だから、裸を見せることはない。現在は裸も許されているようだが、当時はまだ胸を見せること
すらしていなかった。夫のために身を売る糟糠の妻の鑑?ここら辺は儒教国ではどうなのか。

もう一つ〈桑の実〉が出てくる映画で、アッバス・キアロスタミ監督 1997年作品「桜桃の味」
を思い出す。キアロスタミはイランを代表する映画監督である。
「パンと裏通り」(1970) 「トラベラー」(74) 「友だちのうちはどこ?」(87)
「クローズ・アップ」(90) 「そして人生は続く」(92) 「オリーブの林をぬけて」(94)
「風が吹くまま」(99) などの公開された作品を見ている。

 自殺志願の中年男が、自分の自殺を手伝ってくれる人を探している。睡眠薬を飲んで穴の
 中で眠るから、次の日死んでいたら穴を埋めてくれ、と。1人目のクルド人兵士に逃げられ、
 2人目のアフガン人神学生にも断られる。3人目の老人は引き受けてくれて昔話を始める。
 〈自分が若かったころ生活が苦しくて自殺しようと考えた。桑の木に登ってロープを掛けよう
 としたら、桑の実に手が触れた。食べてみたら美味しかった。死をそこに置き忘れて桑の実
 を持って帰った。・・・〉そして笑い話をする。〈指で体を押すと痛いので病気では?医者曰く、
 体はどこも悪くはない、指を骨折しているだけだ。〉


キアロスタミの映画は説明するのが勿体ない。見たことがある者同士で、静かに感慨に耽る
といったことが似合いそうだ。いつもと違った映画体験が出来るから、見るべし!とだけ言おう。
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by rurou-no | 2007-04-28 12:58 | 映画

ロートレック

19世紀末、美しき時代のパリ、モンマルトルにあった赤い風車 ムーラン・ルージュ
夜な夜なここに通い詰めて、踊り子や娼婦、酔っ払いの姿をスケッチしていた小さな紳士。
身長140cmの偉大なる画家、トゥールーズ=ロートレック

ロートレックは子どもの頃に大腿骨を骨折したことで脚が発育不全となり、大人になっても
小さいままであった。そのせいかどうか、サービス精神に溢れ、ユーモアがあり巧みな話術
で、常に周囲を楽しませる人気者であったそうだ。

1880年代から90年代のパリは、頻繁に浮世絵の展覧会が開かれるほど、日本ブームと
なっていた。ロートレックもまたたくまにその虜となり、日本趣味が昂じて浮世絵や工芸品、
掛け物、根付などを収集するようになる。彼の絵には明らかに浮世絵の影響が見てとれる。

ロートレックは石版画(リトグラフ)の作品で、広告ポスターを芸術の域まで高めた功労者で
ある。今でいうグラフィック・デザイナーのはしりと云えよう。

個人的に夢中になっていた19世紀末から20世紀初頭のパリ、への扉となり道先案内人で
あったのは「ムーラン・ルージュ」のロートレックであった。ショーの歌手や踊り子、娼家の女
たち、安酒場の猥雑さなど、その華やかさと暗さ、エネルギッシュで堕落した感じに憧れた。

ロートレックは、ユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドンと愛人関係になるが、長くは続かず
娼家とダンスホール・酒場を行ったり来たりして、梅毒とアル中になり36歳の若さで亡くなる。

ロートレックを描いた映画は、1952年ジョン・ヒューストン監督の 「赤い風車」 を見た。
1998年ロジェ・ブランション監督の「葡萄酒色の人生」は、まだ見ていない。
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by rurou-no | 2007-04-27 14:48 | 美術

マチスの色

フォーヴィズム(野獣派)を代表していた アンリ・マチス は、ピカソ と並べて賞賛される
存在であるが、構図が複雑化していったピカソとは対照的に、単純な線で描かれたマチス
は個人的には当初、それほどの大物とは思えなかった。

私の場合、たとえば絵が気に入るかどうかは、最初に出会った瞬間の印象が左右している。
出会い頭の感覚がモノをいうのだ。ところがマチスだけは違った。初めのうちは「はは~ん、
これがマチスか、ふんふん」なんて、それほどのショックはなく、いたって冷静に通り過ぎた。
それが2度3度と度重なるうちに、どういう訳かだんだんと愛着が出てきたのであった。

繰り返し見ることによって、その良さを少しずつ発見しながら、惹かれていった。
「人々の疲れを癒す、よい肘掛け椅子のような芸術をめざしたい。」と、マチスが言ったとか。
確かに、ゆっくりゆったり味わっていけるのがマチスなのである。

南フランス地中海沿岸の港町コリウールへ行ったとき、北フランス出身の彼には過剰過ぎる
その強烈な光と色を目にして、あの大胆で独創的で鮮やかな色彩の作風を確立していった。
晩年は「線と色」を突き詰めた結果、色紙をハサミで切り貼りする切り絵画家となる。

マチスの作品の中には、オリエンタルな雰囲気を感じさせるものがあるのは、マチス自身が
民族衣装のコレクターだったからに他ならない。あの色遣いの秘密の一端が、ここら辺にも
あるような気がする。

5人の人が手をつなぎ輪になって踊る 「ダンス」 を見たとき、マチスが好きになった。
なにしろ、輪の中に入って一緒に踊りたくなってくるもんだから。
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by rurou-no | 2007-04-26 14:20 | 美術

美しい夏キリシマ

映画監督の 黒木和雄 さんが昨年4月12日に脳梗塞で亡くなってから、ほぼ1年になる。
最後まで映画への情熱は失せず、遺作となった「紙屋悦子の青春」はその死後に公開された。

黒木和雄の作品は、良質のアート系映画を製作・配給していた ATG(アート・シアター・ギルド)
の系列映画館で上映されていたから、その殆どを見ている。

「美しい夏キリシマ」(2002年)は 「TOMORROW 明日」「父と暮らせば」 とで三部作と
されている。「TOMORROW 明日」(1988年)は1945年8月8日、原爆を落とされる前日の
長崎市内で暮らす人々の日常風景が描かれている。結婚式があり、赤ん坊が生まれ、恋人
同士の逢引、捕虜の死、新郎新婦の初夜、そして夜が明けて8月9日午前11時2分になる。

「美しい夏キリシマ」は、黒木監督自身が実際に体験したことが基になっているそうだ。空襲で
目の前にて同級生を失ったショックで体調を崩した少年が、霧島山を仰ぎ見る南九州の静かな
農村へ療養に行く。1945年8月、戦時下での日々の営み。多感で無垢な少年の目に映った
敗戦前夜の光景。そして敗戦。全編に亘って蝶が舞っていたのが印象的であった。

「父と暮らせば」(2004年)は、広島が舞台になる。原爆投下後3年、ひとり生き残ったことに
負い目を感じながら生きる娘の前に、幽霊となって父が現れる。井上ひさし の戯曲が原作。

「紙屋悦子の青春」はまだ見る機会がない。原作は松田正隆の戯曲。彼自身が主宰していた
〔時空劇場〕の舞台を観たことがある。この作品は松田の母親の実話に基づいたものらしい。
卓袱台と水屋が置かれた簡素な装置。静かな会話が交わされるだけの感動的な芝居だった。
長引く戦争中、兄夫婦と暮らす悦子に縁談が持ち上がる。その相手は、お互いに密かに心を
寄せていた特攻隊員、の親友であった。真っ直ぐな思いやりの気持ちが、切なくて美しい。
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by rurou-no | 2007-04-25 14:01 | 映画

ヌー の大移動

星野道夫さんが 「カリブー」 なら、岩合光昭さんは 「ヌー」 であろうと勝手に思っている。
動物写真家としてそれぞれ素晴らしい仕事をして、私たちに未知の自然や動物の生態を知る機会を与えてくれた。一枚の写真が、新しい世界への窓となっているのである。
そして、特にこの2人に注目する取っ掛かりとなったのが、「カリブー」であり「ヌー」であった。

「ヌー」はアフリカ大陸南部、タンザニアの セレンゲティ やケニアの マサイマラ に生息する野生の牛である。草食動物であり、食料となる草を求めて集団で大移動することで知られる。
その規模は半端でなく、数十万頭から百数十万頭の集団というからすごい。
移動距離も3000キロに及び、一年の大半は移動に費やしている。

岩合光昭はこの大移動の写真を撮る為に、夫人の日出子さんと5歳になる娘の薫ちゃんと家族3人で、セレンゲティに滞在した。
この時の記録は、岩合日出子著 「アフリカポレポレ」 に詳しい。

ケニアへ行く飛行機の中でこの本を読んだ。初めてのアフリカへの旅で高揚していた気分が極めて日常的な生活者の視点で書かれた本のおがげで、未知の地への距離が近づいた。
帰りの飛行機の中でも読み返していて、そのまま忘れてきてしまったのが残念だ。何度でも繰り返し読みたい本だったのに。誰かがそれを手にして、そうしてくれていればいいのだが。

ヌーの集団を率いているのはシマウマだ、という面白い説がある。こんな突飛な発想が好きだ。
あまり視力の良くないらしいヌーは、警戒心の強いシマウマと行動を共にすることで外敵からの危険を回避し、シマウマもヌーの集団に守られるという持ちつ持たれつの関係なのだと思う。
〈午年の牛飼い少年〉としてはその親密さは、ほくそ笑みながら納得してしまう。
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by rurou-no | 2007-04-24 10:36 |

グノシエンヌ

エリック・サティ の曲で 「ジムノペディ」 の次によく知られているのが、この 「グノシエンヌ」
ではないかと思う。1番から6番まであり、それぞれ3分前後の短い曲だ。

サティは、西洋音楽に新しい道筋をもたらした改革者である。現代音楽の祖であり、環境音楽
の概念を導いた先駆者でもある。彼の影響を受けた音楽家は、メシアンイーノケージ など
枚挙にいとまがない。とまぁ大層に書いてはみたものの、サティなら一笑に付すだろう。

彼は、生真面目な気取り屋で皮肉屋で絶対自由の実践者であった。神秘主義者でダダイスト
そして音楽の発見者(発明家)。なんとでも形容できる変わり者に過ぎない。
異端児扱いされながら、《家具の音楽》と自ら呼んだ簡素な音楽を淡々と作っていった。

「グノシエンヌ」は、ギリシア語の「知る」に基づいた造語らしい。
古代ギリシア・クレタ島の古都グノーソスから、或いは神秘主義的宗教団グノーシス派に由来
している、との2つの説がある。
1889年パリ万博での、ルーマニア民族舞踊合唱団に触発されて作曲したそうだ。

サティの楽譜には、しばしば音符の他に絵や文字が書き添えられているのが特徴らしいが
この曲では、「大変艶やかに、疑い深く、思考の末端で、あなた自身を頼りに、一歩一歩、
舌の上に乗せて」と1番に、2番では「驚きを込めて、外出せずに・・・」と続く。

サティが今の私と同じ年齢の時、コクトー に語ったとされる痛快な言葉がある。
「途方もない幸福だよ、老人であることは。若い頃、私はいつもこんな言葉に追っかけられた
ものだ。〈今にいい日が来るよ、今に!きっと〉。よろしい私は今、老人。そして、何も来はしな
かった。何も!」
(坂口安吾 訳)
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by rurou-no | 2007-04-23 15:15 | 音楽

キース・へリング

アメリカの現代美術界は、アクション・ペインティングの ジャクソン・ポロック という抽象画家
を生み出すが、一方で ロバート・ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズ のネオダダ
と称されるグループを輩出した。

そして1950年代イギリスで始まったポップ・アートが、60年代のアメリカで開花する。
ロイ・リキテンシュタインアンディ・ウォーホル の登場は、美術愛好者や美術館のもの
でしかなかったアートを、一般大衆の誰もが享受することになる革命をもたらした。

大量生産/大量消費のアメリカ社会の潮流に乗り、アートも消費文化の一翼を担うことになる。
その後、商業資本である企業も広告制作などで積極的にアートを取り入れるようになり、今や
コマーシャルとアートは不可分の関係となってきた。

キース・へリング は、ストリート・アートの代表的な存在だ。
世界中の、と言ってもいいくらい若者たちの日常に、へリングが溢れている。街を歩いていても
へリングの絵をプリントしたTシャツを着たり、カバンを持ち歩いている光景を目にするのは珍し
いことではない。なにしろあのユ○○ロで売っているのだから。

「アート」という言葉に、ある種の特権的な響きを感じ取っていた世代からすると、隔世の感が
する。当たり前のように生活の中にアートがあり、アートが消費されている。

キース・へリングは自身がHIVの感染者だったことから、エイズ撲滅の活動に積極的に参加し
ポスター制作などをしている。また、それ以外の社会貢献活動にも熱心だった。
1990年2月、31歳の若さで亡くなるが、彼の作品は再生産を繰り返しすっかり身近になった。
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by rurou-no | 2007-04-22 14:05 | 美術

カンディンスキー

ワシリー・カンディンスキー は、1866年12月モスクワに生まれる。
ミュンヘンに出て絵を学び、ロシア革命後モスクワへ帰るものの、社会主義的リアリズム芸術
が台頭してきたことで、1921年再び国を離れる。そして帝国が崩壊したドイツへ。

1919年ワイマール共和国に出来た革新的な総合芸術(建築・美術・工芸・写真・デザイン等)
学校である バウハウス で教鞭をとることになるが、ここもナチス・ドイツによって閉鎖された。
僅か14年の歴史であったバウハウスは、モダニズム建築、モダン・アートの礎となった。

カンディンスキーは モンドリアン と並んで抽象絵画のパイオニアとして知られる。
基本は、「色」「線」「面」 三つの要素による構成で、現象として見えるものに隠されたところに
あるものを描くこと。現象世界からの解放、即ち精神の自由の獲得である。

ところがこの両者の作風は対照的で、クールなモンドリアンに比して、カンディンスキーの絵画
には、象徴主義的なものを感じる。それに色彩や形態にリズムがあり、音楽を奏でているかの
ようですらある。一枚の絵から、一曲の音楽が聴こえてくる。

1987年8月京都国立近代美術館での展覧会で、カンディンスキーの本物と出会った。
やはり図録や写真で見ていたのとは随分と印象が違う。丸や三角、小動物を思わせる形など
実物大で、なおかつ全体の構成の中で配置され色が塗られている、のを見ないと伝わらない
ものがある。もっとも図録であれ写真であれ、何か感じ取れればそれでもいいのだが。

抽象画は、画家自身が絵の中で精神性の自立を求めているものだから、その絵の前で考え
たり理解しようとしたりしても無駄なことである。見る側も気持ちを自由にして、感じればそれで
いいのだ。何よりも、理論家のカンディンスキーが抽象をやっているのだから。
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by rurou-no | 2007-04-21 14:59 | 美術

ズブロッカ

下戸の私が酒の紹介をするのも変だが、忘れられない一品として ズブロッカ がある。
ポーランド製のウオッカで、ボトルの中に必ず《ズブロッカ草》という香草が入っている。

ズブロッカ草(バイソングラス)は、ポーランド東部にある世界遺産ビャウォヴィエジャの森に
群生する、においの強い植物だそうである。
かやの一種で、希少な保護動物であるズブラ(ポーランド・バイソン)という野生の牛が好んで
食べることから、その名がついたと云われる。

香草の色素が溶け込み薄黄緑色をした液体は、独特の芳しい香りを発散する。
ある人は春の若草を思い、またある人は桜餅の香りと具体的になってくる。

酒好きとは勝手なもので、この酒は滋養強壮・精力増強に効果があるといって、酒量が増える
言い訳にしている。それというのも、力強さや威厳と権力の象徴であるズブラが食べるからだ。

冷凍庫に入れても凍らないから、キンキンに冷やして呑むのがいいらしい。
まだアルコールを断つ30年も前のこと、友だちの安アパートで集まって持ち寄りの宴会をして
いた時誰かが「いいものが手に入った。」と言って持ってきた。香草が中に入っている酒なんて
珍しいから、よく覚えていたのだと思う。40度の強い酒なので少ししか飲めなかった気がする。

下戸のため周りにいる呑兵衛どもから、「人生の半分を損している。」と、よく茶化されてきた。
言われてみれば、確かにその通りかも知れない。たとえそうであっても良しとしよう。酒のない
人生もまた楽しからずや、である。
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by rurou-no | 2007-04-20 12:53 |


一瞬を、永遠に
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