一所不住



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鳥の歌

前にカタロニア民謡の 「鳥の歌」 のことを書いたが、今回は南米ボリビアの映画
60年代半ばから、映画の製作・上映・配給の活動をしている、映画監督 ホルへ・サンヒネス
を中心としたグループ、ウカマウ集団。出演者はすべて先住民族のアイマラ人、ケチュア人で
あり、映画の中でもそれぞれの母語を使っている。

ボリビアでの最初の長編作品 「ウカマウ」(1966年制作) から、グループ名が発生した。
政治的・社会的メッセージを強く主張した内容の映画であるため、様々な妨害にあい亡命
生活を余儀なくされたり、また2本の長編フィルムが破損または行方不明になっている。

「コンドルの血」(69) はアメリカの平和部隊による、先住民への強制不妊手術を告発した。
「人民の勇気」(71) は政府軍の、鉱山居住地に住む先住民殺戮を証言に基づいて再現。
71年軍事クーデターにより、チリへ亡命。73年軍事クーデターによりペルーへ亡命。

「第一の敵」(74ペルー) 理不尽な農園主との闘い。この映画で、ウカマウ集団を知る。
「ここから出ていけ!」(77エクアドル) 共同体の亀裂。多国籍企業に奪われた土地の奪還。
82年ボリビアへ帰国。

「ただひとつの拳のごとく」(83) ボリビア文民政権樹立ドキュメンタリー。
「地下の民」(89) 村を追放された男が死が待つ村へ帰る。先住民の神話「死の踊り」の仮面。
「鳥の歌」(95) 16世紀スペイン人によるアンデス征服を批判的に捉えた映画を撮ろうとする
          撮影隊が自ら直面した先住民社会との軋轢、葛藤を描く。先住民社会を尊び
          畏怖して民族映画を撮ろうとした撮影隊は、結果的に征服者と同じことをして
          いるのではないかと、自省した作品。普遍的な問いかけ。

最新作 「最後の庭の息子たち」 は見ていないが、どれも力強い作品ばかりである。
こうした第三世界の国々の映画を見る機会が、もっともっと増えていって欲しい。
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by rurou-no | 2007-03-31 13:02 | 映画

クリムト

グスタフ・クリムト は、1862年オーストリア・ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれた。
1897年保守的な美術家組合に反旗を翻し、古典的伝統的な美術から離れた新しい造形
表現を目指して、ウィーン分離派を結成。初代会長となる。

クリムトの作品は、どれも官能的である。生と死、そして愛をテーマに当時はまだ許されて
いなかった女性の裸体や性描写を描き、エロティックでスキャンダラスな絵はしばしば物議
を醸した。《琳派》の影響を思わせる、金箔を多用した絢爛豪華な作品が多い。

絵葉書として使うつもりで美術館で購入した、「接吻」 「ダナエ」 「ユディト」 のポスト・カード
をどうしても手放せなくて、長い間手元に置いていた。あれはどうしたのだったか? 随分と昔
のことだから、使わないままいつの間にかどこかへ行ってしまった。

世紀末の退廃的な雰囲気さえ感じさせる、クリムトの官能と死のイメージは、私の中にも確か
に潜んでいて、そうした甘美な性的なものへの興味を強く刺戟した。
人間としての究極の欲求は、エロスとタナトスに尽きるのではないか。

そういえばベジャール「エロスタナトス」 というバレエ作品を創っている。
そしてクリムトと出会い、その影響を受けた エゴン・シーレ にも官能と死が付いて離れない。
クリムトとシーレ、この2人はどうしてもほっとけない存在なのである。

官能からは遠ざかり、死が近づくばかりの今となっては、せめてボケないようにと頭の中だけ
でもフル回転で、イマジネーションの世界に遊びたいと思っている。
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by rurou-no | 2007-03-29 15:58 | 美術

リトアニアへの旅の追憶

前衛映画の神様ともいわれている ジョナス・メカス
1922年 リトアニアに生まれる。詩人。映像作家。批評家。

1940年ソ連軍、42年ナチス軍の侵攻によって度重なる占領・支配を受ける祖国リトアニア。
彼は「反ナチ新聞」を発行して、抵抗運動に身を投じる。そのことが発覚し、強制収用所へと
送られる。45年収容所を脱走後、難民キャンプを転々としたのち、49年アメリカへ亡命した。

ニューヨークのブルックリンに移り住んだ彼は、自らを表現する手段として16ミリカメラを手に
して、日々の出来事を日記のようにフィルムに記録していった。

同時に、映画批評誌「フィルム・カルチャー」を発行、「ヴィレッジ・ヴォイス」誌に「映画日記」を
連載、「映像作家協同組合」の設立、インディペンデント・フィルムの上映・収集・保存に尽力、
その行動力たるや常に、アメリカの前衛映画の先達としてリードする立場にあった。

「リトアニアへの旅の追憶」 はモノクロの16ミリ映画である。
ブルックリンの移民たちの日常の風景、27年ぶりに訪れた故郷セミニュケイで再開する母や
友人たち、思い出の場所や景色が写されて行く。そしてハンブルク郊外の強制収用所跡地。

「どうしても撮らざるをえない瞬間やイメージに出会うと、それに逆らえない。」
なんでもない日常の中で、そうしたものを発見していく。そしてフィルムに記録する。
「個人映画」という概念は、現代において盛んになったホーム・ヴィデオとどこが違うのか?

それを知るには、メカスの映画を見るしかない。映像作家を志す人々に「神」とまで言わしめた
彼に一歩でも近づきたいなら、美を知覚・発見する能力を養うしかない。
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by rurou-no | 2007-03-28 13:04 | 映画

レンブラントの光

17世紀オランダを代表する画家 レンブラント は、自画像、肖像画、そして聖書や神話を
テーマにした物語画を数多く残している。

レンブラントの作品の特徴は、絵の一部分に光を当てて影の部分を際立たせ、肖像画から
さえもその人物の物語が立ち上がってくることである。
「光の画家」と紹介されることがままあるが「光と影の画家」と言い直してもらいたい。

レンブラントに惹かれるのは、単なる肖像画ですら、ある部分に光を当てることによって演出
を試みているからに他ならない。或いはその人物の、内面を引き出しているのかも知れない。
ベラスケスが冷徹な観察力で、人物の内面までも肖像画の中に表現したのとは違う意味で。

長い間、演劇やダンスの舞台を 光と影で(色も含めて)演出する仕事をしてきた者にとって
レンブラントは教科書であった。どこに光を当て、陰影をどう表現すれば良いのか、すべて絵
の中に答えが示されていた。どの作品も完璧な演出が施されている。

随分昔の話になるが、ある専門学校の舞台照明の講師を依頼されたことがあった。その時は
1年先までスケジュールが塞がるほど、多忙な時期であったため実現しなかったが、引き受け
ていたら間違いなく レンブラントから講義を始めただろうと思う。そして次は印象派か。

絵の中で画家たちはどのように光を捉えたのか、古い建物を巡り建築家たちはどのように空間
を構成したのか、自然の中に身を置いて光の移ろいはどう変化するのか、旅に出て歩くことで
さまざまな経験と観察を繰り返し、学んだことが実を結べばと願ってきた。

レンブラント自身のターニングポイントとなった二つの作品、『テュルプ博士の解剖学講義』
『夜警』 。これが集団肖像画だから、なおのこと愉快なのである。
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by rurou-no | 2007-03-27 12:34 | 美術

睡蓮

〔印象派〕 という名称の由来ともなった 「印象、日の出」 の画家 クロード・モネ は、
シスレールノワールセザンヌ らとともに印象派を象徴する大家である。

モネは、「日傘をさす女」 や 「ラ・ジャポネーズ」 など知られるが、やはり 「睡蓮」 の連作を
見ておかねばと、パリの市街地図を片手に出かけた。

オランジュリー美術館だったか、マルモッタン美術館だったか、どちらへも行ったから混同して
いて、さてどっちだったかと思い出せない。その印象だけが強く残っている。

階段を降りるとその部屋はあった。ちょうど池の中へ入っていくかのような錯覚を起こす仕掛け
になっていた。周りの壁全部が 「睡蓮」 だった。他には何もなく、「睡蓮」 だけの部屋である。
時の流れとともに光の表情も変化していく、それに伴ってさまざまな睡蓮が現れる。

半日その部屋で過ごした。池の中に浮かんでいて、目の位置が水面と同じ高さになっている。
私の身体は、刻々とその姿を変えていく睡蓮に包み込まれている。胎児の記憶か、水の中へ
入ると心地いい。そうして飽きることなく、蓮の葉を一枚ずつその感触を確かめていった。

それから数年後、トニー・ブイ 監督のベトナム映画 「季節の中で」 を見た。
ファーストシーンで、一面に蓮の花が咲く池へ小船を浮かべて花を摘む少女が出てくる。
モネの 「睡蓮」 を思い出した。ホーチミン市では蓮の花を売り歩く少女をよく見かけるという。

この映画は、蓮の花を売る少女と蓮池の持ち主、シクロ(バイクタクシー)の運転手と娼婦、
ストリート・チルドレン、元米兵、それぞれの人生が交差しながら物語が進んでいく。
蓮池が印象的で、蓮の花を積む少女のイメージが全編を貫いていた。
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by rurou-no | 2007-03-26 14:21 | 美術

南方熊楠

郷土の偉人を紹介したいと思う。
博物学者? 粘菌類の研究家? 民俗学者? すべて当てはまる。
彼のことは一言では表せない。奇人とも云われるその人の名は、ミナカタクマグス。

南方熊楠 は、1867年(慶応3年) 和歌山市に生まれる。
1884年 渡米 ミシガン州立大学で粘菌の研究をする。
1892年 渡英 科学雑誌 『Nature』 に 「東洋の星座」 「拇印考」 などの論文を発表。
          その後、大英博物館で図書目録編纂係として職を得る。
1900年 帰国 紀州熊野の山に入り、粘菌の研究に没頭する。
1904年 田辺市に居を定める。
1917年 新属新種の粘菌を発見。 ミナカテルラ・ロンギフィラ (ミナカタの長い糸) 

とまぁ経歴を掻い摘んで書き写してみたが、近年は漫画になったり、TVで紹介されたりと
ブームになっているそうだ(どちらも見ていない)。

特筆すべきは、明治政府がやろうとした神社合祀に対し、鎮守の森を守るべきだと反対し
自然保護運動の先駆けとなったことである。
熊楠の精神を継承した地元田辺市の人々は、貴重な自然の生態系を守るため、天神埼を
市民の寄金で買い取り、自然環境を保全していくナショナル・トラスト運動の先鞭をつけた。

汗っかきのせいで、いつも上半身裸のまま褌一つの姿で 山の中を歩き回っていたため、
変人、奇人扱いされていたとか。

中央学会に目を向けることがなかったから、その稀代の天才博物学者は なかなか評価
されないままだった。中央の学者をはるかに凌ぐ博識だったからね。
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by rurou-no | 2007-03-24 13:18 | 地域

                         作詞 林柳波  作曲 井上武士
    海は広いな大きいな 月が昇るし日が沈む
    海は大波青い波 ゆれてどこまでつづくやら
    海にお舟を浮かばせて 行ってみたいなよその国
                     
          我は海の子
        作詞 宮原晃一郎  作曲 不詳
    我は海の子白波の さわぐいそべの松原に
      煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ
    生まれて潮にゆあみして 浪を子守の歌と聞き
      千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり

                      
今は橋が架けられて地続きになったものの、8年前までは紛れもなく離島であった。
この島で生まれ、18年間過ごした。それはまさに歌の風景、そのままの世界だった。

潮騒を子守唄として聞き、毎日丸く見える水平線を眺めていた。その海は遊び場であり
生活の場であった。海の精気は体の隅々まで、溢れ出るほど行き渡っている筈だ。
なんという幸せな体験だったかと思う。

再びこの島に暮らすようになって、もうすぐ1年になる。腰を落ち着けたのは島の中でも
生まれ育った地域とは反対側に位置するせいか、どことなく落ち着いたはずの腰がフワ
フワと浮いている感じがしていたものの、ようやく慣れてきたみたいだ。

周囲が約27kmにすぎない、小さな島であっても言葉や習慣の違いがあり、面白い。
知らないことがいっぱいあるこの島の宝探しを、ぼちぼち始める時期が来たのか。
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by rurou-no | 2007-03-23 09:49 | 地域

木枯し紋次郎

 木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという。十歳の時、国を捨てその後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎が、なぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない。愛を求めてさすらう旅か、孤独を求めてさすらう旅か、縞の合羽に三度笠、口の楊枝がヒュウと鳴る、あいつが噂の紋次郎。

芥川隆行 の名調子が耳にこびりついている。TV時代劇 「木枯し紋次郎」 の冒頭シーン。上條恒彦 が歌う 「だれかが風の中で」 がバックに流れる中、山道を早足で歩く紋次郎。

 ♪どこかでだれかがきっと待っていてくれる 雲は焼け道は乾き陽はいつまでも沈まない 心は昔死んだ微笑には会ったこともない 昨日なんか知らない今日は旅をひとり けれどもどこかでお前は待っていてくれる きっとお前は風の中で待っていてくれる♪


高校生のころはまだ TVをよく見ていたと思う。笹沢佐保 の小説を原作に、市川崑が演出していた。
主人公が泥臭くて不恰好で、それまで見たこともない時代劇に夢中になった。型をまったく無視したへっぴり腰のリアルな立ち回りは、単に斬り合いでしかなかった。

「あっしには関わりのねえことでござんす」 と言いながら、いつの間にか困っている人を助けている。クールでニヒルな主人公を体現していた 中村敦夫 は、カッコよかった。

ナレーションでは天涯孤独な紋次郎が、主題歌では風の中で待っていてくれるヒトかモノか、それを見つけるためにさまよっている。いったいそれは何なのか、いつも考えていた。
他人と距離を置こうとしながらも、関わらずにいられない旅烏、渡世人。徹底した個人主義が実は極めてヒューマンな心根の持ち主であった。新しいヒーロー像に喝采した。

同世代の男なら誰しも覚えがあるはずだ。爪楊枝を咥えて紋次郎を気取ったことを。
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by rurou-no | 2007-03-22 14:19 | 子ども時代

人生幸朗・生恵幸子

「責任者出てこいー!」 「ほんまに出てきたらどないすんねんや」 「謝ったらええのんや」
このお馴染みのフレーズが懐かしい、人生幸朗・生恵幸子 ご両人の漫才が好きだった。
世相や流行歌の歌詞にイチャモンをつけてぼやく、正統派ボヤキ漫才であった。

「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種は尽きまじ」 石川五右衛門のもじりで始まり、
「まぁ皆さん聞いてください。」 と、つづく。「世の中何を見ても聞いても腹立つことばかり、
わたしも何十年とボヤキ続けて、どうもならん。ほんま嫌になりまっせ。」

最後は、「笑いこそ健康の栄養素、凝りと疲労の回復剤。」 「なんや薬屋のおっさんみたい
なこと言うてんねぇ。」 「笑え、笑え、笑う門には福来る。皆様のご健康とご発展をお祈り申
し上げ、ボヤキ講座予定終了でごさいます。」 と締めくくる。

出鱈目なことばかりが大手を振っている今の時代に、人生幸朗師匠がまだ健在だったら
どんな風にボヤいてくれたか と考えずにいられない。

おてんとさまは何も見ていない。ルールなどお構いなしに勝てばいい、の世の中。
人間としての良心など欠けらもない者が、大きな顔をしている。
世の中何を見ても聞いても腹立つことばかり、ほんま嫌になってくる。

泥亀で、よだれくりで、ハゲちゃびんで、ぼけなすで、あほんだらの小生は、せいぜいがとこ
連れ合いを相手にぼやくのが関の山。負け犬の遠吠えみたいで情けないったらありゃしない。

ボヤキ芸を継承する芸人が出てこないものか。ついつい、ないものねだりをしたくなる。
人生幸朗というキャラクターあってのボヤキだったことを思うと、笑えない現実が。
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by rurou-no | 2007-03-21 13:27 |

秋刀魚の味

昨日に引き続いて、小津映画を。
「秋刀魚の味」 は、1963年12月12日ちょうど60歳の誕生日に亡くなった、小津安二郎
の遺作となった。残念ながらこの映画のことは、あまりよく覚えていない。

〈名匠〉と称される小津安二郎の作品は上映される機会が多いおかげで、戦後に撮られた
ものは殆ど見ている。中でも、笠智衆の父親と原節子の娘という設定の 「晩春」(1949年)
麦秋」(1951年) 「東京物語」(1953年) は、これぞ小津映画と言える代表作である。

小津の映画は、絵画的構図が画面を支配する。人物と背景の小道具や装飾、装置が等しく
バランスがとれる状態に配置されている。カメラは低い位置に固定され、会話する人物は常に
正面から捉えるカメラの方を向く。繰り返されるその形態が、いつしか様式となっていった。

小津の映画でいつも感心するのは、言葉の美しさである。野田高梧と小津安二郎のコンビに
よる脚本がとてもいい。家族同士であっても敬語を使って話す。関係に一定の距離感があり、
そうすることで思いやりの心情を強調していた。さらにここに出てくる女性たちは、自分の意思
をはっきりと主張し行動するのも、昔の女性のイメージと違っていて面白い。

家庭内の日常の出来事を題材にした映画を撮り続けた小津監督は、ワンパターンの批判に
対しても耳を貸さず、豆腐屋は豆腐を作るのみと一貫した姿勢を崩さなかった。
小津監督のすごいところは、しっかりとした型があるからこそ、自由な表現が可能であること
を知っていたことである。その型が、撮影の厚田雄春とともに小津調美学を完成させた。

小津安二郎もまた、生涯独身を通した。
ホームドラマを撮りながら理想の家庭像を追い求めていたのか、はたまた家族という幻想を
シニカルに見つめていたのか、おそらく頭の中には映画しかなかったのだろうなぁ。
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by rurou-no | 2007-03-20 10:19 | 映画


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