一所不住



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ルキノ・ヴィスコンティ

イタリアの没落する貴族や上流階級の世界を、退廃・官能・耽美な映像で魅せてくれた
ルキノ・ヴィスコンティ 。ミラノの名門家系出身にして伯爵であった。

彼の映画は、絢爛豪華な装飾とオーケストラによるクラシック音楽のイメージが強いものの
 ロベルト・ロッセリーニ 「無防備都市」 「戦火のかなた」 「ドイツ零年」
 ヴィットリオ・デ・シーカ 「自転車泥棒」 「終着駅」 「ひまわり」

らとともに、イタリアン・ネオ・レアリズモが出発点だった。

1943年 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 でデビューしたあと、48年 「揺れる大地」 
54年 「夏の嵐」 60年 「若者のすべて」 63年 「山猫」 などを撮る。

その後ドイツ三部作とされる 69年 「地獄に堕ちた勇者ども」 71年 「ベニスに死す」 
72年 「ルートヴィヒ神々の黄昏」 
そして 74年 「家族の肖像」 75年 「イノセント」が遺作となった。

滅びのゆくところに「美」が存在する。堕ちていく人間のどうしようもなさ、汚辱と昏迷の姿が 
その危うい美しさを強調すればするほど、浮かび上がってくる。

ヴィスコンティは、貴族出身でありながら左翼のレジスタンスに身を投じた。
映画だけでなく、オペラの演出家としても名声を博した。
バイセクシャルであることを隠さなかった。

後半生は贅沢三昧の大作を作った事を含めて、徹底したリアリズム手法を貫き、その「美」
の掴まえ方は的確であり、鬱陶しいほど過剰な「美」を提示してくれた。
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by rurou-no | 2007-02-28 14:01 | 映画

トーテムポール

アラスカの大自然、そしてカリブーやグズリー、ムースなどの動物たち、そこに暮らす人々の
姿を、素晴らしい写真と愛情溢れる真っ直ぐな文章で紹介してくれた 星野道夫 さん。
ヒグマの生まれ変わりとまで云われた彼が、そのヒグマに襲われて命を落としてから10年が
過ぎた。彼がいなくなった、彼の写真と文章が残った、この二つの事実は拭いようもない。

彼の写真集や本を通して、漠然としたイメージしか持っていなかったトーテムポールのことを
具体的に知ることとなった。

おもに南東アラスカ、カナダ北西ブリティッシュコロンビア、北アメリカ北西海岸一帯に住む
トリンギット族やハイダ族、チムシアン族、クワキウトル族などの先住民が、氏族のシンボル
として作ってきたものらしい。

そこでは氏族の紋章・歴史・伝説・神話が、動物や植物、自然現象といった形で象徴的に
表現されている。
興味深いことは、この紀伊半島の熊野地方でヤタガラスとして馴染みのある ワタリガラス
がサンダーバード、イーグルとともに 神聖な鳥として彫られていたことだ。

各地域に共通した神話では、創世主として人類に光・火・水を与えたことになっている。
熊野とアラスカ、カナダ北西海岸が、ワタリガラスを通して繋がった。
人類の大いなる旅が ユーラシア大陸からベーリング海峡を渡り、アラスカへと向かった。
そして別のグループは、南下して日本列島へと辿りついたのである。

トーテムポールは腐食しやすい木で作られているため、古いものは残っていないそうだ。
何故ならば、「自然(大地)から作られたものは自然(大地)に帰るものだ」 という考え方が
あるから。朽ち果てて土に返り、森を再生する力となる、自然への叡智・哲学があるのだ。
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by rurou-no | 2007-02-27 10:50 | 言葉・本

万博公園に立つ 太陽の塔

1970年に開催された、大阪万国博覧会の会場跡地が そのまま広大な公園となった。
当時は誰も彼もが 「月の石」 見たさに、この博覧会へと出かけていたのを覚えている。
中には何度も通う人もいたりして、余程の事情がない限り万博詣でをしたようである。
紀伊半島最南端の田舎町に住む者とて例外ではなかった。

あとで珍しがられるほど、当たり前のこととなっていた万国博覧会へ、私は行っていない。
今なら博覧会という形態がもたらす負の部分について、あれこれと理屈を捏ねるところだが
その頃はまだそんな知恵もなく、ただ単に人が大勢集まるところへ行きたくなかっただけ。

大人になってからその跡地に、頻繁に出かける事になろうとは思いも寄らなかった。
公園内に 「民族学博物館」 「国際美術館」 などが出来たからである。

公園の中央口を入ると、正面にモニュメントとして唯一残された 「太陽の塔」 を仰ぎ見る
恰好となる。「芸術は爆発だ!」の 岡本太郎 作。
改めて眺めると、なかなか面白くていいものだ。その表情は、何回見ても飽きない。

万博30周年の企画展だったか 国際美術館で、太陽の塔の内部を再現した展示を見た。
地下から塔のてっぺんまで伸びる 「生命の樹」 。生命の進化を表現したものだが、ここに
岡本太郎の真髄があった。特に印象的だったのは地下空間の、世界中から集められてきた
民俗資料としての仮面や神々の像の圧倒的な数。太古の時代の祈りの場となっていたのだ。

人生に「もし」はないが、臍を曲げることなく万博へ出かけていて、少年の柔らかい感性で
この太陽の塔の内部へ入ってそれを見ていたら、きっと違う人生を送っていただろうと思う。
頭が爆発していたかも知れぬ。
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by rurou-no | 2007-02-26 14:38 | 美術

瑠璃色のターバン

その時、その絵の前で立ち止まったまま 長い間動くことが出来なかった。
それまで周りを包んでいた人込みの息遣いや、気配が全て消えて、たったひとりで
その絵を向き合っていた。静かな、真空の中にいるかのように静かな時間だった。

ヨハネス・フェルメール 『真珠の耳飾の少女』 または 『青いターバンの少女』
向こうから日本に来てくれたので、労せずして出会えたのであった。

「瑠璃色」とした青は、ラピスラズリを原材料にした「ウルトラマリン・ブルー」。またの名を
「フェルメール・ブルー」という。 宝石に近い鉱石ラピスラズリは、アフガニスタンとチリで
しか採れない非常に高価なものであったそうな。

葛飾北斎 の「青」も、これに近い。北斎が使った「ベロ藍」は、「プルシャン・ブルー」。
プロシア王国の錬金術師が偶然に作り出した「青色」だった。

レンブラント ブリューゲル ルーベンス そして ゴッホ など、ネーデルランド出身の
画家による作品には惹かれるところが多い。とりわけ、生涯30余点の絵しか残していない
謎の多い画家 フェルメールには、多分に漏れず魅了された。

細部まで描き込んだ精緻な筆使い、光と影のあやなす空間、静謐な佇まい、ありきたりの
言い方しかできないが、言葉では説明しきれない微妙なバランスに支えられている。

少女との邂逅に戻ろう。というのも、振り返ってこちらを見ているその顔には見覚えがあった。
目と唇と耳飾りが光を反射して、少し目眩を起こしたのかも知れない。前は何処で会ったの
だったかと思い出そうとしていた。「久しぶりやね」と口をついて出た瞬間、我に返った。
どうやら白昼夢を見ていたようだ。
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by rurou-no | 2007-02-25 15:33 | 美術

レニ・リーフェンシュタール

101歳まで生きたこの女性のことを書くのは、「美」の本質について考え、またその強さと
危うさを認識した上でないと、自らの立場も問われかねない難しさを含んでいる。

レニ・リーフェンシュタール は 1902年 ベルリンに生まれ、ドイツの現代ダンスである
ノイエ・タンツのダンサーとして、その経歴を始める。その後、膝を痛めたことによりダンスを
続けられなくなり、女優そして映画監督となる。晩年は写真家として「美」と関わり続けた。

1934年 ニュルンベルク ナチ党大会記録映画 『意志の勝利』 これはドイツ語バージョン
      しかないので、言葉が解らないまま観た。これぞプロパガンダ映画の傑作。
1936年 ベルリンオリンピック記録映画 『オリンピア(「民族の祭典」「美の祭典」)』
      選手の肉体賛美が、結果的にナショナリズム賛美となっている。これも傑作。

彼女は戦後、ナチの協力者として逮捕・投獄されている。生涯その汚名と闘い続けた。
「私は政治には関心がない。私が興味あることはただひとつ"美"だけです。」
この言葉に嘘はない。それを疑う余地がないほど、彼女の作品の芸術的価値は高い。

「美」を表現するためには、あらゆる手法や技術を駆使することを惜しまない。
『オリンピア』 は270時間ある撮影フィルムを、1年半かけて自分で編集したそうだ。
この映画ではドキュメントであるにも拘らず、棒高跳び競技は別の日に撮り直したものだし
水泳選手のクローズアップやマラソン選手の足元などは、別撮りのフィルムを挿入した。

後半生は、スーダンのヌバ族を10年間取材した集大成の写真集 『ヌバ』 を1973年出版。
71歳でスキューバーのライセンスを取得し、100歳で 『ワンダー・アンダー・ウォーター』
を発表するなど、「美」への追求は衰えることを知らなかった。見事な生き様であった。
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by rurou-no | 2007-02-24 16:00 | 映画

星の流れに

     星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿
     荒む心で いるのじゃないが 泣けて涙も 涸れ果てた
     こんな女に 誰がした
                    作詞 清水みのる  作曲 利根一郎  歌 菊池章子


子供の頃に、いわゆるナツメロとして聴いた流行歌である。
敗戦後の混迷した世の中を生き延びる為に、春をひさぐ身の上となった女性がモデルで
あると理解している。子供心にも漠然とそんな事情が察せられた。

現代のように音楽が消費されるものと違い、ちゃんと人々の心に届いて 共有しあっていた
時代の流行り歌だ。ここで歌われている女性に同情したり、蔑みの目で見たりとそれぞれ
複雑な感情を抱えてはいたが、誰もが自分や自分の家族が そうなったかも知れない事は
分かっていた。それが戦争の現実である。

今この国では、憲法を変えて戦争が出来る国にしようという動きがかまびすしい。
憲法9条を守ろうとする人たちに対し、「平和ボケ」という言葉で批判する輩もいた。
ここで声を大にして言いたい、戦争したがっている奴等こそが「平和ボケ」しているのだと。

人と人が殺し合う戦争には、正義もヘッタクレもありはしない。そこには傷つけられ、命を
奪われた無数の人々、血と涙の海に累々たる屍が無残に転がっているだけである。
「平和ボケ」した奴等の頭には、戦争がもたらす悲惨な現実への想像力がないのだ。

為政者・権力者は自分だけは安全圏にいて、威勢のいいことばかりほざくのが常だ。
戦争を放棄した、その姿勢こそが世界に誇れるものであり、世界中の人々が羨望の眼差し
で視ている事実に、もっと自信を持つべきだと思う。
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by rurou-no | 2007-02-23 10:05 | 言葉・本

ジーザス・クライスト・スーパースター

イエス・キリストがユダの裏切りにあい、十字架に掛けられるまでの最後の7日間 を描いた 
1971年 ブロードウェイ初演の ロック・オペラ 「ジーザス・クライスト・スーパースター」 は、
ロンドン生まれの作曲家であるアンドリュー・ロイド・ウェバーにとっての出世作である。

そしてその後、ロンドンのウェストエンドや ニューヨークのブロードウェイなどで次々と手がける
作品をヒットさせ、時代の寵児となる第一歩を標した作品になった。

1973年 作曲 アンドリュー・ロイド・ウェバー  作詞 ティム・ライス のコンビはそのままで
ノーマン・ジュイソン 監督により映画化された。おかげでやっと、メディアの情報だけでしか
知らなかった話題作の 片鱗に触れることが出来た。

イスラエルの死海とその周辺の砂漠で ロケしたと伝えられているこの映画は、舞台設定は
キリストの時代だが 出演者は1973年当時の若者のスタイルそのままであった。
全て歌と踊りで構成されており、ミュージカル映画としては斬新で心躍るものを感じた。
マグダラのマリア役はアジア系、ユダ役はアフリカ系の役者がしていた記憶がある。

アメリカはベトナム戦争が泥沼化し、撤退がまことしやかに語られていた時代背景を考えると
平和を訴える若者たちのムーブメントと、キリストの受難を重ね合わせる手法は隠喩的では
ないかと思う。そこではキリストは、スーパースターよりもトリックスターかのようであった。

今やまさに同じ状況で、アメリカはイラク戦争が泥沼化して、撤退論が公然となってきた。
もともと何の大義もなく、イラクの人々を殺戮するためだけの戦争だった。
ベトナムのころより表現の自由が脅かされている現在、新しい物語を紡ぎ出す表現者は
どのようにして現れるのだろうか。
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by rurou-no | 2007-02-22 14:40 | 映画

けんかえれじい

『けんかえれじい』 は、鈴木清順 監督  高橋英樹 主演 による 1967年の作品である。
旧制中学の、硬派でバンカラな学生が 喧嘩と煩悩に明け暮れる日々を描いたもの。
世相が次第に不穏な空気を帯びてくる様を、北一輝が登場する短いシーンで象徴していた。

鈴木清順は、公募の助監督一期生として松竹へ入社するが、高給に釣られて日活へ移る。
日活では 小林旭 宍戸錠 和田浩二らを主演に、B級プログラム・ピクチャーの監督として
傑作、駄作織り交ぜて、次々と奔放なイメージで映画を撮っていくことになる。

そうした中、『けんかえれじい』 のあとに撮った、『殺しの烙印』 が難解すぎると社長の怒り
を買い、日活を追われて映画が撮れなくなった。1968年のことである。

10年の沈黙の後、1977年に 『悲愁物語』 で復活。この作品は評判が芳しくなく、1週間
で公開打ち切りの憂き目にあうが、私は逆に高く評価している。日常の中に潜んでいる恐怖
に背筋が凍りつくくらいと言ったら大袈裟か。白木洋子 江波杏子 原田芳雄 3人が怪演。

清順美学に世間がやっと追いついたのは、1980年 『ツィゴイネルワイゼン』
内田百閒の 『サラサーテの盤』 を原作に、荒戸源次郎がプロデュース、脚本は田中陽造。
映画的色彩の美しさと豊かなイメージの展開で、清順映画としては空前のヒット作となった。

「映画というのは、ひとつのフォルム(形式)以外のなにものでもない。」 と言い切る。
その言葉どおり、清順映画は様式美とそれを壊す力が拮抗して、現実と超現実のあわいで
不思議な魅力を醸し出しているから目が離せない。
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by rurou-no | 2007-02-21 14:56 | 映画

助っ人の名前が由来 「超芸術トマソン」 物件

プロ野球 読売ジャイアンツに在籍していた 助っ人のゲーリー・トマソン選手は、バットにボールを当てることがなかなか出来なかった。無用の長物であるにも拘らず、球団は大事に保持(動体保存)していた。おかげで彼は、この国の芸術史に名を残すこととなる。

「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」超芸術トマソン は、このように定義付けされている。
1972年 赤瀬川原平 南伸坊 松田哲夫 の3氏が四谷の路上で、上った先には何もない階段を発見したことに始まる。のちに 「四谷の純粋階段」 となる物件である。

これは創作意図のない物件を、視る側が発見する芸術であるから 「見立て」や「借景」など高度なテクニック(遊び心)が要求される。
当時エロマガジンの発行元であった白夜書房が発行する雑誌 『写真時代』 でトマソン物件の報告が連載されるに至って、一般に認知されるようになった。

その後、トマソンの増殖とともに様々なタイプが出現し、ついに 1986年 路上観察学会 が発足する。
先駆者 今和次郎が提唱した「考現学」をお手本として、藤森照信の「建築探偵」 林丈二の「マンホール学」 南伸坊の「ハリガミ考現学」 と変種活動が多彩だ。(宝島社が発行する 『VOW』 と混同されがちだが、向こうは「オモシロ投稿写真」 こちらは「超芸術」であるからして 一線を画したい。)

世の中、〈無用の人間〉など1人も居ない。役立たずだったトマソンも 立派に役に立ったではないか。
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by rurou-no | 2007-02-20 10:30 | 美術

道楽なら 『胴乱の幸助』

道楽にも色々あるが、喧嘩の仲裁が道楽という御仁がいる。
上方落語に 『胴乱の幸助』 という噺があり、裸一貫無一文から一代で大店を作り上げた
旦那が主人公。その名を小林幸助といい、又の名は「胴乱の幸助」。

この幸助さん、子供のころ丹波の山奥から出てきて 還暦の歳まで働き詰めで、何の
楽しみも持たず実直な真面目一方のお方だった。《呑む打つ買う》とは縁がなく、芝居
は見たことがない、寄席へ行ったことがない、浄瑠璃を聞いたことがない、というもの。

楽隠居の身となった今 たった一つの道楽が、揉め事を見付けては間に入り、胴乱(財布)
を出して物事を収めること。お馴染みの喜六清八の両人も、嘘の喧嘩をして仲裁に入って
もらい、まんまと小料理屋で一杯せしめる。

たまたま浄瑠璃の稽古で耳にした、姑の嫁苛めを現実の事と思い込んだ幸助さんは、大阪
から京都まで三十石船に乗って(これが下げの伏線になっている)やってくる。
「柳ノ馬場押小路虎石町西側、帯屋長右衛門~」 子どもでも知っている、お半長であった。
人形浄瑠璃〔桂川連理柵「帯屋の段」〕 お半と長右衛門による桂川での心中事件が題材。

堅物ゆえに、誰でも知っている浄瑠璃の一節までを まともに受け取ってしまう幸助さんの
人間の良さが可笑しみを誘う。演者の技量が問われるネタだ。

さて自分は何の道楽かと考えてみたら、《呑む打つ買う》はしないまでも、芝居は見る、寄席
へは行く、浄瑠璃は聞く、で さしずめ身上をなくすほどの「文化」道楽とでもしておこう。
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by rurou-no | 2007-02-19 13:10 |


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