一所不住



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   ふるさとの 訛りなつかし
   停車場の 人ごみの中に
   そを聴きにゆく        石川啄木


旅する者にとって 駅は、特別な存在である。
未知の世界へ 一歩踏み出す時、また様々な体験を胸に 我が家へと
帰り着く時、必ず駅を通過する。
駅は未来へ開かれた、時間の窓でもある。

例に漏れず私も 駅には一方ならぬ思いがある。
知らない土地へ行って、最初にその土地の人と接触するのが 駅だ。
そこは情報を仕入れる場所であり、日が暮れると宿泊する場所にもなった。

鉄道を利用した旅から、バイク・ツーリングへと 旅のスタイルが変わってからも
駅の近くを通ると、思わず立ち寄らずにはいられなかった。
大事にされている駅、ほったらかしにされている駅、駅には駅の事情があるのが
よく分かる。とりわけ最近増えている無人駅は、表情がバラエティに富んでいる。

駅は 大勢の人と人が交錯し、人の数だけドラマが展開する。 願わくば、駅の
ホームか待合室で 日がな一日 人を眺めて過ごしてみるのも 趣向だと思う。

因みに 島っ子にとっての最初の駅は、港の桟橋であった。
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by rurou-no | 2006-12-31 13:07 |

COMPOSTELA

スペイン ガリシア地方にある サンティアゴ・デ・コンポステラは、巡礼の道の
終着点である。

14年前の12月に亡くなった友人 篠田昌巳 はその時 コンポステラ
という名前のグループで 演奏活動をしていた。

77年 生活向上委員会大管弦楽団 にスタッフとして参加した私は そこで
サックスを吹いていた 彼と出会った。笑顔がなんともいい感じだった。
バンドのメンバーでは一番若かった彼と 歳が近かったせいもあって気が合い、
東京へ出た時には 泊めてもらったりするようになる。

生活向上委員会が解散後、PUNGO じゃがたら 長谷川宣伝社(チンドン屋) 
篠田昌巳ユニット コンポステラ と彼の魅力ある音作りは、どんどん広がった。
まさに生き急いでいる姿が そこにあった。

彼の死後、何年もの間 泣きながら彼のCDを聴いてきた。悲しくて、切なくて、
遣り切れないけど、聴き続けることが 供養になると思うから。
今でも泣けてきて 涙がボロボロ流れてくる。だけどその涙は 悲しみだけでなく
その音の素晴らしさに、感極まった 感情の発露でもある。

いつか 「星の原っぱ」 という名の町 コンポステラ へ行ってみたい。
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by rurou-no | 2006-12-30 14:47 | 音楽

ふわぁるいよっ

我が家で 流行りの言葉が、二つある。
「おいよ、つらいよっ」 と 「ふわぁるいよっ」
どちらも この地方の方言で、それぞれ意味があって使われているが、
我が家では 殆ど意味もなく使うことが多い。

会話の合間に 茶化したり、単に言葉を返すためだけに用いたりする。
ボケたり、ツッコんだりの リズムのようなものである。

30年以上も離れていると、たとえ生まれ育った土地であっても 他所の地
という風に見えたりすることが たまにある。
それゆえ懐かしさとともに、新しいことの発見や驚きの連続でもある。

上記の二つの言葉は、聞いたときに 懐かしさと言葉の面白さを感じて
真似をするように使い出した。

前者は、少しだけ困った時などに発するが あまり困っていないニュアンスも
含まれていたりするから なんとなく面白い。
後者は、恰好が悪いといった意味。つまり世間体を気にした言葉で、世間体の
概念がない私たちには とてもユニークな言葉であった。

旅をした時、土地の人が話す言葉で その地が好きになったりすることがある。
コミュニケーションの手段として 重要であるにも拘らず、山一つ越えただけで
話し言葉が違っていたりするから ややこしくていい。
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by rurou-no | 2006-12-29 17:15 | 言葉・本

ケチャ

祈りと芸能の島 バリ。
イスラム国のインドネシアにあって 唯一、バリ・ヒンズーを信仰する島の人たち。
彼らの一日は 祈りから始まる。
家の周りに 何ヶ所もの祈りの場所があり、毎朝 花と供物を捧げてお祈りする。
信仰心の薄い日本人にはとても真似が出来ないほど、生活と祈りが違和感なく
一体化され、日常の風景となっているのだ。

祈りと共に 暮らしの中に溶け込んでいるのが芸能である。
毎日必ずどこかで、ガムランの演奏会や バリ舞踊の上演をしている。
日が暮れると三々五々集まり、村人たちによって 音楽や舞踊が演じられる。

その中で 嵌まってしまったのが、「ケチャ」。
寺院の広場で、上半身裸で腰布を着けた100人余の男たちが 円陣を組んで座り
「チャッ チャッ チャッ」 と、ユニゾンでリズムを刻むように歌いながら 激しく踊る。
円陣の中央では、同時に 古代インド叙事詩『ラーマーヤナ』を題材とした舞踊劇が
進行する。レゴン(女性の踊り)、バロン(動物を模した踊り) 等、次々に登場する。
更に ダンサーがトランス状態になってしまう サンヒャンが踊られることもある。
小さな松明の明かりだけで 暗いからこそ、夢幻の世界へ 誘われるのだ。

近年は、バリ絵画やバティック(染織物)など 洗練された芸術品でも有名になって
きているが、これ以上は 観光案内になってしまいかねないので、これまで。
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by rurou-no | 2006-12-28 14:23 |

まつりフリーク

祭りが好きだ。
懐具合に余裕があれば、何処の祭りへでも行ってみたい。
ハレの日に 地域全体が浮き足立って、晴れがましい雰囲気に満ちている、そんな
空気感がなんとも好ましい。

日々の営みの中で、常に神の存在を意識し 崇め、心の拠り所としてきたことへの
感謝のしるしとして 供物を捧げ、芸能を奉納する。
代々伝承されてきた儀式・行事とともに、年に一度の無礼講の日として成り立った。

また祭りは、若い男女の 出会いの機会でもあった。
地域によっては、祭りの期間中は 自由な性愛が許されていたという。
今の様に 男と女が簡単に出会えなかった頃の話である。

意識しないまでも そうした諸々のことが背後にあればこそ、神楽舞や獅子舞などの
芸能事が華やいでくる。そして山車の飾り付けが賑やかになる。

祭り好きが昂じたわけではないが 芸能関係の仕事を長い間してきて、日常(ケ)が
ハレの日になっていた。
静かな環境が好きだからこそ、騒々しい祝祭に惹かれるのだ。
「ケ」が中心のの今は、せいぜい「ハレ」を求めて 東奔西走する夢でも見よう。
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by rurou-no | 2006-12-27 13:58 | まつり

八百万の神々

古来日本には、森羅万象全てに神が宿る という自然観があった。
それは、大きなる存在としてある自然の中で 生かされていることへの感謝と、
見えない力への畏敬の念から 生じたものであろう。

ところがこの考え方も 日本独自のものではなく、世界各地で共通していた。
日本の先住民アイヌはもとより、ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)、
中南米のインディオ、極北に住むイヌイット(エスキモー)、ヨーロッパの先住民
ケルト、オーストラリア大陸のアボリジニ等々、それぞれの地域に応じた違いは
あれど、自然と共に生きる哲学ともいえる 共通項がみられる。

これはまた自然信仰、精霊崇拝(アミニズム)など 原始宗教へと通じる。
「八百万の神」 と言う時の 「神」 は、宗教よりも 哲学の意味合いが強いので
「カミ」 とでも表記した方がいいかも知れない。

人々が培ってきた叡智は、日々の暮らしの中で 生活の知恵として伝えられた。
そして 習俗や風習となって定着した。
少なくとも数十年前までは、そうした伝承が 大事にされていたように思う。
これを 次の世代へ残すのは、私たちの役目だが どうも心許無い。

「おてんと様が見てる」から との教えも、残念ながら死語になりつつある。
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by rurou-no | 2006-12-26 10:57 | 言葉・本

黒子

その姿が 単純にカッコイイと思ったのが、「黒子(くろこ)」。
歌舞伎の舞台で、黒衣(くろこ)を着て 後見役を務める人である。

歌舞伎の約束事として、黒衣を着ていたら その場には居ない、見えない存在
だということになっている。
役者さんの後ろで 合引(あいびき・・・腰掛)を用意したり、小道具の出し入れを
したり、衣裳の着替えを手伝ったり、ときにはプロンプターもしたりと、実に忙しい。
その献身的な仕事ぶりには、感心すること頻りである。

この黒子の役は、基本的には 弟子が師匠の世話を、芝居の手伝いをするのだ。
師匠の後ろに控えて、その息遣いや間合い、一挙手一投足に至るまで覚えていく。
そうしてその芸を盗んで 吾がものとしていくのである。

黒子が顔を隠しているのに対して、顔を出して 紋付袴で世話をする場合がある。
こちらは 「後見」。文字通り後見役として、同格或いは師匠格がすることもある。

「縁の下の力持ち」という言葉が好きだ。人の見えないところで、目立たぬように
大きな仕事をやってのける人。そんな人こそが 評価に値すると思う。
社会的には認められていない存在であっても 陰で活躍している無名の人たちの
ことは、陰ながら 応援していきたい。
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by rurou-no | 2006-12-25 14:27 |

大野一雄さん

大野一雄という舞踊家と同時代に生き、一度でも彼の舞台に接することが出来たら
それだけで 幸運で良かったねと その人を抱きしめたくなる。

私が初めて彼の姿を見たのは、スクリーン上でだった。
映像作家の長野千秋氏による 「O氏の肖像」 「O氏の曼陀羅 遊行夢華」 「O氏の
死者の書」 
O氏三部作上映会。確か1977年のこと。
衝撃を受けた。探していた人を見つけた と思った。

初めてその舞台を目にしたのは、1985年 東京有楽町にある朝日ホールにて。
「死海 ウィンナーワルツと幽霊」 「ラ・アルヘンチーナ頌」 の2作品を2日間で。
この公演のあと、彼の弟子をしていた知人に紹介してもらい 挨拶をさせてもらった。
次の日、横浜にある彼の家を訪ねる。

秋の日の昼下がり、大野家の居間で紅茶をいただきながら 同じ時間を過ごした。
窓から入る光の加減が とても印象的だった。
一介の若造を相手に イスラエルの死海へ行った時のこと、アルヘンチーナの踊りを
初めて見た時のこと、それぞれの作品について 丁寧に穏やかな口調で話してくれた。
そして 母親のこと、クリスチャンである自分のことなど。至福のひとときであった。

70歳、80歳、90歳と年齢を重ねるごとに 全盛期を迎えていた。
現在、99歳。まだ舞台への意欲は 失われていないという。
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by rurou-no | 2006-12-23 14:27 | 演劇・ダンス

野の道で天気予報

小学校何年生の時だったか、夏休みの自由研究に 雲と天気の関係について
調べたことがあった。
それというのも、周りの大人たちは 風向きや空の様子を見て 次の日の天気を
予測し 仕事の段取りをするのが常であったからである。
そしてそれが 間違いなく当たっていた。

夏休み中、牛追いの行き帰りに空を見上げ、雲を観察した。
忘れないうちに、その時見た雲の形を絵に描く。名前を調べ、性質も書いておく。
毎日、朝と夕方の 雲の絵と名前、そしてその雲が出た次の日の天気を予想する。

あのときのノートは いったいどこへいってしまったのだろう?
野の道を歩きながら 空を仰ぎ見る。そばでは牛が 美味しそうに草を食べている。
真夏の日差しの下でも、爽やかな風が流れて心地よい。
穏やかな時間が ゆっくりと過ぎていく。

この島でも もう見られなくなって久しい光景だ。
野の道は広くなり、アスファルトが敷かれた。牛を飼う家もなくなった。
島には橋が架かり、道は人が歩くところから 車が走るところになってしまっている。

雲を見てした天気予報は、ことごとく当たった。
もっとも人の記憶は、自分に都合のいいようにしか 覚えないらしい。
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by rurou-no | 2006-12-22 17:32 | 子ども時代

命を食べる

子どもの頃、牛の世話と一緒に 鶏の世話もしていた。
これも昼間は放し飼いで、夜になると鶏小屋へ入れる。自家消費分の卵は、
全て賄っていた。そして卵を産まなくなると ツブして食べる。

「きょうは鶏ツブすさか、あの卵産まんよになったの つかんでごいし。」
雛から育てているから 可愛い鶏ばかりである。中には特に気に入っているのも
あったりして、それを殺したくないばかりに わざと違うのを捕まえて持っていく。
それでもすぐにバレてしまう。
「これとちゃうがえ、あれやて。」 「そんでもあれ時々産むさけ、置いとこらい。」
そうして命乞いが通じるのも1回きりで、次にはツブさなければならない。

首を落として、血抜きをする。熱湯をかけて、毛をむしる。この毛をむしるのが子ども
の仕事だ。毎日餌をやって育てていた 鶏の毛を1枚1枚むしり取っていく。
鶏の命がそこにあり、それを食べるのである。

魚も ついさっきまで海の中にいた、まだ動いているのを料理して食べてきた。
道具を使うようになって、ある意味で 自然界の食物連鎖、弱肉強食の頂点に立って
いる人間は、自らが生きていく為には さまざまな生き物の命を 食べ続けていくのだ。

そうした、他の生き物の命をいただくこと のリアリティーが失われた現代は、不幸な
時代と云わざるを得ない。人の命に対する想像力すら なくなってきているから。
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by rurou-no | 2006-12-21 14:26 | 子ども時代


一瞬を、永遠に
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