一所不住



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 から始まる言葉  捜しても見つからない。
これは、迷宮入りするのか。

 の捜査は難航  極めた。
こんな体たらくではいけない。困った、コマッタ。
そうだ!こまったときは、新明解さんに聞いてみよう!

 1(格助) 2(終助) 3(接助)  をとこてん  をば  をや
たった、これだけしか載っていない。

 から始まる言葉って、とこてん しかないのかいな。
新明解はん、そりゃ あんまりやないか。頼りにしてたのにぃ。
漢文は あまり得意やなかったし、とこてん のことなんか書けまへん。
かんにんしておくれやっしゃ。

とうとう  の捜査は行き詰まってしまった。
あとは、「 探偵団」の登場 を 待つしかない。
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by rurou-no | 2006-11-30 15:48 | 言葉・本

涙腺が緩く

齢を重ねると 誰でもそうなるのか、最近 涙腺が緩くなって 困っている。
本や新聞を 読んでいる時など、思わず 落涙しそうになることがある。 
どうってことない、ちょっとしたいい話 程度でも、人の気持ちの優しさを
感じ取った時には危ない。ついつい、こみ上げて来るものがある。

それでも、近ごろ大流行の お涙頂戴ものではいけない。
その あざとさや、薄っぺらな感情の大安売りには 鼻白んでしまうだけだ。
さすがに年の功というか、仕掛けられたものには たやすく乗りはしない。
人の感情は、複雑であることを 知っている。

今年、串本でも上映があった 「男たちの大和」という映画がある。
話題作であり、感動して大勢の観客が涙を流したとPRしていた。
ところが実際は 安直で大雑把な、いたずらに長いだけの作品だった。
ステロタイプの戦争映画で いったい何をい描こうとしていたのか。
退屈で、泣けるところなどなかった見本として。

閑話休題。
音楽を聴いても 涙が出そうになることがある。
旋律が泣かせるのか。
音楽の持っているエナジーが 心を掴まえて離さないから。
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by rurou-no | 2006-11-29 15:28

ヌーベル・バーグ

ある時期まで 一番好きな映画を問われたら、迷うことなく ジャン・リュック・ゴダール
勝手にしやがれ」と答えていた。 ジャン・ポール・ベルモンドと ジーン・セバーグが 
とてもかっこ良くて、背景となっているパリの街角と ともに憧れたものだ。

1950年代に興った、フランス映画の〈新しい波〉 ヌーベル・バーグは、ゴダール「気狂い
ピエロ」「中国女」  フランソワ・トリュフォー「大人は判ってくれない」「突然炎のごとく」
ルイ・マル「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」 他に アラン・レネ  ジャック・ドゥミ
クロード・シャブロル  エリック・ロメール  など、錚々たるメンバーが名を連ねている。

もちろん 生まれて間もない公開時に、それらの映画を観たわけではない。
京都に住んでいた頃、その当時盛んだった 自主上映の映画会で 殆んどの作品を観た。
田舎にいたころは東映の時代劇くらいで、東京へ出てから映画の面白さに目覚め、そして
更なる映画体験として この一連のフランス映画は 新鮮で感覚器官を刺激した。
当然のごとく 来る日も来る日も 映画なしではいられない、映画漬けの日々が始まる。 
暗闇で スクリーンと向き合っている時こそが、至福のひとときとして 今も変わらない。

同時期に、日本でも 松竹ヌーベル・バーグ と呼ばれた面々があった。
大島渚「日本の夜と霧」「飼育」  篠田正浩「暗殺」「心中天網島」  吉田喜重「秋津温泉」
「エロス+虐殺」  それぞれ、大女優 小山明子 岩下志麻 岡田まり子 と結婚した。
才能ある人が羨ましくて 嫉妬してしまうのは、こんな事実を目にした時かも。
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by rurou-no | 2006-11-28 16:29 | 映画

リリー・マルレーン

マレーネ・ディートリッヒ の歌で知ることになる 「リリー・マルレーン」は
ハンス・ライブの詩に ノベルト・シュルツェが曲を付け ラーレ・アンデルセン
歌った、1枚のレコードから 物語が始まる。事実は小説よりも奇なり。

発売当初は全く売れなかった 「リリー・マルレーン」だが、第二次大戦中の
北アフリカ戦線のドイツ軍兵士に 熱狂的に受け入れられて、大ヒットする。
当時の、ベオグラード放送局のラジオで その日の放送の最後に 必ずこの曲が
かけられたそうだ。
その内に 連合軍兵士の間でも話題となり、この曲が流れる時間になると 双方
ともに戦いを中断して、聴き入ったと言われている。

一躍スターとなった ラーレ・アンデルセンは、戦地慰問へと駆り出されるが 夫が
ユダヤ人だったことから ナチスの秘密警察ゲシュタポに拘束され、拷問を受ける。
ラーレは、イギリスBBCラジオのプロパガンダ放送によって 偶然助け出されるが、 
すでに 宣伝相ゲッペルスが 「リリー・マルレーン」を 葬り去ったあとだった。

ナチスを嫌い、フランスへ亡命していた マレーネ・ディートリッヒが この曲を復活
させる。反ナチ闘争のために 積極的にこの曲を歌い、大ヒットさせたのであった。

1981年 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督 ハンナ・シグラ主演で、
同タイトルの 映画も作られている。
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by rurou-no | 2006-11-27 20:44 | 音楽

地球の上に朝が来る

あきれたぼういずの 持ち歌だと思っていたが、リーダーだった川田義夫が
ミルクブラザーズを結成してからの 歌らしい。

京都に、「地球屋」という 若者相手の飲み屋があった(今もあると思う)。
その2階で、芝居仲間が「朝が来る」という名前の飲み屋をやっていた(今はない)。
そして3階には、画廊をしていた場所が 空いたままになっていた。
ここを短期間限定で、イベントスペースとして 友人たちと共同で借り、「真空クラブ」と
名付けた。そこでは 展覧会は勿論、コンサート、芝居、ダンス、詩の朗読会、講演会、
アート・パフォーマンス、等々 様々な催しが行なわれることになった。

「真空クラブ」には 天窓がついていた。天気のいい日には、光が射して来る。
夜には、月や星さえ見えたりもする。
この天窓を 初めて見たときに、ある情景が目に浮かんだ。夜明けを待つ姿が。

友だちが演出して、芝居が1本出来た。ただひたすら 夜明けを待っているだけの芝居。
開演は、夜明け前。天窓が、闇から徐々に明かりを獲得していく。
彼は誰れ(かはたれ)どきの、グレイの色が美しい時間を 観客と役者が共に過ごす。
たった1日だけの 公演だった。

その日は、曇り空だったため 〔最後に天窓から太陽の光が差し込む〕シーンは 実現でき
なかったが、明るくなる空を見上げながら ♪地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう♪
のフレーズが 口をついて出た。
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by rurou-no | 2006-11-26 14:35 | 演劇・ダンス

トニー谷

今から50年くらい前、芸能界の寵児として 人気の絶頂期にあったボードビリアン。
傲慢な性格ゆえに 芸人仲間からも嫌われていたという その人の名は、トニー谷

「レディース・エン・ジェントルメン・あんど・おとっつぁん・おっかさん」「おこんばんわ」
で始まる彼の喋りが好きだった。怪しげな英語(トニィグリッシュ)を駆使して、聴衆を
煙に巻く。ザンス言葉と そろばんパーカッション、特異な形の眼鏡に髭の姿。

戦時中は、南京 上海を転戦し、上海で現地除隊したと伝えられている。
その後、シンガポール マニラなどで バンドマンや通訳をしていたらしい。
帰国してからは、進駐軍を相手に芸を磨いたのだろうその西洋風スタイルのMCは 
斬新で センスがあった。

実の父を知らずに生まれ、養父による虐待から逃れるようにして 家を出たあとは
身一つで、成り上がった。人を信用せず、友だちも少なかったらしい。

誰にも真似の出来ぬ あのキャラクターを作り出すまでは、相当な艱難辛苦が
あったと想像する。どこまでも明るい 喋り芸は、芸人としての執念を思わせる
凄まじさが滲み出ていた。

一世を風靡した人気者にも拘わらず、その死は 誰にも知られることなく
身内だけで、静かに送られたそうだ。
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by rurou-no | 2006-11-25 14:12 |

辺鄙、僻地、辺境

臍が曲がっているせいか、人と違うことを考えたり したりする傾向が強い。
そういう性分だから、仕方がない。

旅のスタイルがそうだ。いつの間にか 辺鄙な所ばかり歩いている。
もっとも冒険家ではないから 人跡未踏の辺境を目指したりはしない。
人の暮らしが ないと困る。かつて人が暮らした 痕跡が残っているだけの場所
なら なおいいかも知れない。廃墟にはことのほか 興味がある。

知らない街へ行くと 路地裏を歩くのが好きだ。路地から路地へと どんどん奥へ
入っていく。オートバイや車で走っている時でも 脇道があるとつい、そっちの方へ
行ってしまう。目的地がはっきりしていても、わざわざ回り道をする。

外国へ旅をした時も 路地裏探検を済ませると、電車やバスで終点まで行く。
どこに着くのか 分からないから面白い。
国境を 歩いて越えたり、渡し舟で越えたりした。
おかげで土地のひとには、初めて日本人に会ったと 喜んでもらえる。

ところが立場変われば 見方も変わる。ポリスには 不審者にしか見えないらしい。
見かけない奴 と、何度も職務質問を受けた。
「この、菊の御紋が目に入らぬかぁ。」と パスポートを差し出せど、アジア人の顔を
していないと ますます怪しがられてしまう。
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by rurou-no | 2006-11-24 10:12 |

ホーキ星

1970年代、新宿に 「ホーキ星」 という名の店があった。
そこは 女性解放運動の拠点であり、女性の新しい生き方を考える場であった。
銀座にあった「3ポイント」時代から知り合いだった スタッフや出入りする女性たちの
おかげで、私自身の精神が 解放された場所でもある。

古い因習が残る 田舎で成長した私は、知らず知らずのうちに 男とはこうあるべき
女とはこうあるべきという、男尊女卑の考え方に凝り固まっていた。
それは今思えば、非常に窮屈なもので 自らを枠の中に押し込めていたと言える。

そのことを気づかせてくれたのは、「ホーキ星」の女性たちである。
二十歳を過ぎてまもなく 彼女たちと出会ったのは幸運だった。
「男も自立しなきゃダメ!」 女の自立をメッセージとして発信していた その場所で
言われた。

一枚づつ殻を剥いでいくたびに、重い心が 確実に軽くなっていった。
それは 心を解放していく作業であった。そのまま性格も 開放的になっていく。

あの出会いがなかったら、どうなっていたのか。
私が、何物かから 救い出されたのだと思う。
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by rurou-no | 2006-11-23 15:35

日本で一番古い

生まれ育った島は 近代史で重要な役割を果たしており、我が国で一番古いと
言われているものが 二つある。

一つ目は、洋式石造り灯台として スコットランド人 R.H.ブラントンによって建設され
1870年(明治3年)6月10日に点灯を始めた 樫野埼灯台。

そして二つ目は、更に時代を遡って 1791年(寛政3年)の出来事。 ペリーが浦賀へ
黒船で現れるよりも、62年も前に アメリカの商船レィディ・ワシントン号とグレイス号の
2隻が 大島近海を通りがかり、樫野のマエノ浜へ上陸して 水や薪を求め、村人と
交流したことが アメリカの公文書に記録されている。 
これが史実における 日米最初の接触である。

大島の沖合は 古くから海上交通の要所であり、同時に 航海の難所であった。
外国の船員はこの辺りを Wrecked Coast (遭難海岸)と言って 恐れていたそうだ。

のちに トルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇も この樫野埼で起こった。
ここから 日本とトルコの友好の歴史が始まる。

こうして書き出してみると 昔から外の世界へ向かって 開かれていた島だったことが
分かる。灯台ですら、外国船の航海の都合で造られたのだから。

そんな海を 毎日眺めて大きくなった少年は、遙か水平線の向こうに広がる
無限の世界へ 夢を馳せた。
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by rurou-no | 2006-11-22 14:00 | 地域

花火には一家言あり

かれこれ 20年近く前からになろうか、毎年 片貝まつり へ行くのが
恒例となっている。そして、浅原神社へ 花火を奉納している。

新潟県小千谷市に片貝町というところがあり、例年9月9日 10日が浅原神社の
例大祭となっている。もともと花火師が多く住んでいたこともあって、秋の祭りには 
神社へ花火を奉納するのが 慣わしとなってきた。

この奉納煙火(と地元では呼んでいる)は、その年に打ち上げる花火を 自ら作り
台車に積んで町内を引き回し(玉送り)したあと 打ち上げていたそうだ。
打ち上げの時には お立ち台で、木遣り歌を唄う。
現在は 花火は注文して作ってもらうが、玉送りと木遣り歌の行事は残っている。

花火は ひと玉づつ名調子のアナウンスによって、メッセージが読み上げられた後
打ち上げる手筈となっている。
誕生祝いから始まって、成人の祝い、結婚の祝い、新築祝い、厄年満願、還暦祝い、
追善供養、古希の祝いなど およそ人生の区切りごとに花火を奉納する。

更に ここでは花火師の心意気を示すため、世界一大きな 四尺玉を上げている。

縁あって、私たちのグループでは 「銀山錦」という花火を 奉納させてもらっている。
花火には一家言ある者ばかりが集まって、毎年「銀山錦」の花を 片貝の夜空に
咲かせ続けている。

この「片貝まつり」は 決して巷に溢れる花火大会などとは違う。
花火が開く、その一瞬に 万感の思いを 人々が共有する場なのだ。
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by rurou-no | 2006-11-21 16:08 | まつり


一瞬を、永遠に
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