一所不住



カテゴリ:演劇・ダンス( 12 )


瑠璃のような

昨日(1日)午後、大野一雄さんが横浜市内の病院で亡くなった。103歳だった。
90歳を過ぎても現役最高齢の舞踏家として舞台に立ち続け、世界中のダンスファンに感銘を与えた。最後に大野さんの踊りを拝見したのは10年ほど前だったか、体は十分に動かないまでも色気は失っていなかった。瑠璃のごときその姿は、衰えを知らぬ凛々しい精神の高ぶりを惜しみなく発散していた。

2~3年前、療養中の大野さんをテレビで見たことがある。車椅子に乗って半ば呆けているような状態で、それでも踊っていた。文字通り死ぬまでダンサーであり続けたのだろう。
これから大野さんは、その踊りに魅了された人々の記憶の中で生きていくことになる。

私にとっての大野一雄は長野千秋さんが撮った映画三部作「O氏の肖像」「O氏の曼陀羅」「O氏の死者の書」で衝撃を受け、その後東京で「ラ・アルヘンチーナ頌」と「死海」の公演を見た。
舞台や映画は強烈な印象を残したのはもちろんだが、大野さんから最初に思い浮かべるのは、窓からこぼれる柔らかな光のイメージである。

秋の日の昼下がり、横浜にある大野さんの自宅の居間で紅茶をいただきながら過ごした、至福のひとときは忘れることができない。窓から庭が見えて日差しが温かかった。ゆっくりと思い出しながら、母親のことやアルヘンチーナの踊りの素晴らしさ、そして死海へ行ったときの様子を話してくれた素顔の大野さんは、物静かで穏やかな表情をしていた。

昨年6月にピナ・バウシュが亡くなり、今年は大野一雄が逝った。ダンスの世界も確実に世代交代が行なわれている。訃報を聞いて私にできるのはただ合掌することだけである。亡き人を思う。思うことで私の中で生き続けていく。

ところでダンスの現況はどないなっているのやろ。田舎に引っ込んで情報に疎く舞台も見てないし、新しい動きに取り残されてしもたなぁ。
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by rurou-no | 2010-06-02 16:14 | 演劇・ダンス

リンゼイ・ケンプ

かれこれ20年も前のこと、リンゼイ・ケンプ・カンパニー が来日して 「真夏の夜の夢」「フラワーズ」 の公演をした。当時は京都に住んでいたから、京都会館で見ている。

リンゼイ・ケンプ は、1938年スコットランド北西にあるルイス島で生まれた。
《魔術師》の異名をとる演出家・振付家、そしてダンサーである。
コンテンポラリー・ダンスの世界では、第一人者としてよく知られた存在だ。

デヴィッド・ボウイケイト・ブッシュ が、リンゼイ・ケンプにマイムの手ほどきを受けていて、彼らの舞台上でのパフォーマンスに強く影響を及ぼしている。

シェイクスピアの作品は我が国でも盛んに上演されるが、中でも「真夏の夜の夢」は比較的解釈が自由に出来るので上演機会が多い。
リンゼイ・ケンプ版「真夏の夜の夢」は、とてもファンタジーな作品に仕上がっていた。

森の中で妖精たちが繰り広げる夢物語。幕が開いた瞬間から彼の魔術の罠に絡められて、我を忘れて夢中になっていた。トリップして体がフワフワと空中を漂っている感じであった。

リンゼイ・ケンプは ジャン・ジュネ を敬愛していたそうだ。そして オスカー・ワイルド も。
デレク・ジャーマン 監督 「セバスチャン」(1976年)では振付と出演もしている。ちなみに音楽は ブライアン・イーノ

そのデレク・ジャーマンは、ケン・ラッセル 監督 「肉体の悪魔」(1971年)で美術監督をしていた。こうしてみるとかつての大英帝国、偉大なる連合王国の美学は同性愛者の芸術家たちによって、綿々と引き継がれてきたのだなぁという思いがする。
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by rurou-no | 2007-07-28 14:48 | 演劇・ダンス

黒テント

1960年代後半から始まった演劇の革命とも言うべき大きなうねりは、70年代に入ったころ
には「小劇場」「アングラ劇」という形容詞も定着して、地方都市へも波及していった。
「テント芝居」というもう一つの呼び名とともに、旅公演をする劇団が増えていったからである。

唐十郎 の 〔状況劇場〕=紅テント と、佐藤信 の 〔演劇センター68/71〕=黒テント
その代表的なものとして双璧をなしていた。《特権的肉体論》の体育会系と、《革命的演劇》の
文化系に分けることが出来る両者は、劇団の組織論から演劇の表現論に到るまで対極をなす
存在であった。観客の方もそれぞれテントの色である「あか」と「くろ」に色分けされていた。

初めて黒テントの芝居を見たのはテントではなく、京都・西陣にある上七軒歌舞練場でだった。
〈喜劇昭和の世界三部作〉と銘打った第一作 「阿部定の犬」
状況劇場は円山公園に張った紅いテントで既に見たあとで、噂どおりの高揚感とカタルシスを
味わっていたから、黒テントへの期待は膨らむ一方で待ちに待った公演であった。

 舞台には大きな三日月、電信柱、そして幻灯機が映し出す「〈戒厳令〉施行中であったにも
 かかわらず、帝都では女たちが次から次へと妊娠していた」の文字。街頭写真師の老人。
 そこは「日本晴れ区安全剃刀町オペラ通り1丁目」。ヒロイン新井純 扮する「あたし」が歌い
 ながら花道から登場する。♪~あたしはあたしぃ ひとりぼっちのふたりづれ~♪


とにかく、カッコよかった。政治的メッセージが何層にも重なり、多少難解なところもあったが
音楽とともに進行する舞台は洗練され、役者さんたちが生き生きとしていた。斉藤晴彦
歌の巧さにも驚いた。状況劇場とはまた違う強力なパンチで、おもいきりノックアウトされた。
このあと 「キネマと怪人」 「ブランキ殺し上海の春」 と続いていく。
芝居三昧の日々が始まる最初のころである。
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by rurou-no | 2007-06-24 15:19 | 演劇・ダンス

マース・カニングハム

「ポストモダンダンス」 の言葉とともに マース・カニングハム の存在を知ったのは1970年代
半ばの頃だったと思う。ダンスに興味を持ち始めていた当時、ジャズダンスやモダンダンスに
飽き足らなくなって、見付けたのがモダンダンスよりも新しいポストモダン。

まだ 「コンテンポラリーダンス」 という言い方は一般的ではなかった。
アメリカンダンスの世界で、ポストモダンダンスの生みの母ともいえるのが マーサ・グラハム
今でもコンテンポラリーダンスを目指すダンサーは、グラハム・テクニックを学んでいる。
カニングハムも、彼女のカンパニーでソリストとして踊っていたことがあった。

その少し前、シアトルのコーニッシュ芸術大学で舞踊と演劇を勉強していた時、ジョン・ケージ
と出会う。この2人の出会いが、20世紀後半から21世紀にかけてのダンス界に与えた影響は
計り知れない。類い稀な才能を持った者同士の幸運な出会いは、偶然であり必然であった。

カニングハムは 「チャンスオペレーション」 という偶然性の概念をダンスの創作に持ち込んだ。
この 「偶然性」 という概念は、ジョン・ケージの作曲する音楽でも提唱されている。
ジョン・ケージは、今や伝説となって語り伝えられる 「4分33秒」 の作曲者である。

1953年 マース・カニングハム・カンパニー を結成。
翌年の新作には、ジョン・ケージの音楽と、ロバート・ラウシェンバーグが美術で参加している。
カニングハムは新しい物好きで、コンピューター・テクノロジーも率先して取り入れた。
ジャスパー・ジョーンズ フランク・ステラ アンディ・ウォーホル などアーティストたちとの
共同作業にも積極的だった。

日本人アーティストでは、彫刻家のイサム・ノグチ コムデギャルソンの川久保玲 音楽家の
小杉武久がいる。小杉さんのことは、また改めて。
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by rurou-no | 2007-05-12 14:26 | 演劇・ダンス

シュレンマー

オスカー・シュレンマー は、1880年ドイツ・シュトゥットガルトに生まれる。
画家・彫刻家・舞台美術家として紹介されているが、彼の名前を後世に残したのは(私が知る
ことになったのは)バウハウスでの業績であろう。

前述したようにカンディンスキーも教鞭をとっていたバウハウスで、シュレンマーは金属工芸を
教えていたそうだ。この学校にあった《舞台公房》においての彼の仕事は、画期的なこととして
注目に値するものであった。キーワードになるのは 「3」 。

『トリアディック・バレエ』 この作品を16ミリフィルムで見たのは、かれこれ30年近く前になろ
うか。その斬新な発想に対して驚きというよりも、喜びの感情の方が強かった。1922年初演と
いうのに、半世紀以上経っても色褪せないダンス表現が嬉しかった。
蛇足になるが、ナチスによって「頽廃芸術」の烙印を押された名誉ある芸術なのだ。

彼は物事を構成する三つの要素に徹底してこだわった。
〈形態・色彩・空間〉〈舞踊・衣裳・音楽〉〈円・三角・四角〉〈赤・青・黄〉〈滑稽・荘厳・幻想〉等々。
作品は3つのパートに別れ、12通りのダンスを18種類の衣裳で踊る。

球体や三角形・四角形の幾何学的な形の奇妙な衣裳を着けたダンサーたちが、ロボットのよう
な動きで踊っていた。コスチュームに制約されて動きがままならない様で面白かった。
TVのCMでも使われていたらしいが見ていない。

二つの大戦に挟まれた時期、ヨーロッパの国々では前衛的・実験的な芸術運動が盛んに行な
われた。このトリアディック・バレエもその一つであった。その洗練されたアヴァンギャルド表現
は、現代でも充分に新鮮なものである。誰か、再現舞台をやってくれないものか。
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by rurou-no | 2007-05-11 10:48 | 演劇・ダンス

水の駅

現在京都造形大学で教鞭をとっている 太田省吾 は、かつて 〔転形劇場〕 を主宰していた。
京都で暮らし始めてまもなく、この東京の劇団の公演で驚くべき体験をする。

1977年10月 川村能楽堂 「小町風伝」 主演 佐藤和代 
能舞台で能楽「卒塔婆小町」をモチーフにするという大胆な試み、そして老婆の饒舌な語りがすべて沈黙劇として演じられた。2時間余の芝居には一言も台詞がなかった。芝居は台詞があって初めて成立するものだと思い込んでいたから、驚きと感動で忘れられない舞台となった。

1983年5月 オレンジルーム 「水の駅」  出演 大杉漣 佐藤和代 他
舞台は共同の水場らしきところ。真ん中に水道の蛇口がひとつあるだけ。ここにいろんな人が来ては去って行く。やはり誰も一言も喋らない。

1985年10月 芦屋ルナホール 「地の駅」
廃墟に少女がひとり。そこを通り過ぎる人をただ眺めているだけ。最後に現れた女の人を見つけると、駆け寄って抱き合う。このあとの「風の駅」とで、駅三部作となる。

〈5メートルを2分かけて歩く〉ゆっくりした動きで、舞台は進行していく。
必然的に時間感覚と対峙せざるを得ない。そして空間と存在について考えさせられる
私たちは《微速》と呼んでいた、超スローな動作は身体的には非常にキツイものである。
その上、台詞を発することが出来ないなんて、役者には苦行としか言いようがない。

喋らないからこそ、見えてくる言葉がある。凡百の言葉よりも一つの動きで表現できることが
ある。台詞を排するという演劇人としての冒険と野心は、大いなる成功を収めた。
この《沈黙劇》は異言語間の壁を超え、外国公演でも大好評であったと聞く。
結局この3作品しか観ていないが、その舞台風景はしっかりと記憶して忘れない。
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by rurou-no | 2007-04-30 13:18 | 演劇・ダンス

クリスティーナ・オヨス

ダンサーの中のダンサー、至高のバイラオーレ、クリスティーナ・オヨス こそは私にとっては
その名を聞くだけで体が熱くなる魅惑の存在、最高のフラメンコ・ダンサーである。

彼女を初めて目にしたのは、1981年 映画 「血の婚礼」 でだった。
フェデリコ・ガルシア・ロルカ 原作  カルロス・サウラ 監督  アントニオ・ガデス 振付
クリスティーナ・オヨスが踊り始めた瞬間、ノックアウトされてしまった。

1986年 アントニオ・ガデス舞踊団の一員として来日公演。「カルメン」
1983年の映画「カルメン」では、脇役のベテランダンサーを演じていたクリスティーナ・オヨス
が、舞台ではもちろん主役のカルメン役。彼女以上のダンサーはいないのだから当然のこと。

その一挙手一投足の仔細な動きすらも見逃すまいと、必死で目に焼き付けた。オーラが凄い。
恍惚の表情、ありったけの感情を官能に集約して身体からほとばしり出すかの動き。緻密さと
ダイナミックさが交互に繰り出され、一瞬の隙も与えない。
カンテ(歌)とギターラ(ギター)が、ダンスに負けまいと見事な演奏で競演する。

もともとフラメンコの音楽を聞いただけで、血が騒ぐほうだった。
グラナダのサクロモンテの丘に登り、ロマ(ジプシー)がかつて暮らしていただろう洞窟を探して
廻った。そこにはもはやフラメンコはなく、旧市街のタブラオでやっとフラメンコに出会った。

1996年に乳がんであることを宣告されたクリスティーナ・オヨスは、生まれ故郷のセビージャ
へ戻り、アンダルシア・フラメンコ・バレエ団の芸術監督として、後進を指導する傍ら自らも舞台
に立ち、フラメンコの第一人者ならではの追随を許さぬ気概をみせている。
また舞踊学校、公演ステージを備えた〔フラメンコ舞踊ミュージアム〕の設立にも力を注いだ。
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by rurou-no | 2007-04-04 13:54 | 演劇・ダンス

パラード

いろは47文字+2文字の順番通り 言葉を探して最後まで辿り着いた。
まだ濁音、半濁音が残っている。
これも、連れ合いが書いている順番に倣って続けてみよう。まずは 「ぱ」 から。

「パラード」 は、エリック・サティ が作曲したバレエ音楽のタイトル。
1917年5月18日 パリのシャトレ座にて初演された。
台本 ジャン・コクトー  舞台美術と衣裳 パブロ・ピカソ  振付 レオニード・マシーン
指揮 エルネスト・アンセルメ  出演 ディアギレフのロシアバレエ団 

このメンバーで創った舞台、とはどんなものだったのかと想像を巡らす。 
是非とも、この目で確かめたかった。90年も前の出来事である。

「パラード」 とは、サーカスや見世物小屋の前で 芸人たちによって行なわれる
客寄せのことを指すそうだ。芝居小屋の木戸口での 口上のようなものか。
マルセル・カルネ監督の 「天井桟敷の人々」 で、パントマイム役者バチストに扮した
ジャン・ルイ・バローがやっていたのを思い出す。

日本では見世物小屋といったら、祭りや縁日で建つ怪しげな小屋とのイメージが強い。
騙されるのが分かっているのに、覗いてみたくなる。だけどあの小屋の中では、今では
後継者がいなくて廃れてしまった、人間技とは思えない芸 「人間ポンプ」 も披露されて
いたことを忘れてはなるまい。いかがわしげな見世物とともに 記憶に留めておこう。
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by rurou-no | 2007-01-19 10:48 | 演劇・ダンス

アングラ

これが今年初めての書き込みであったら、「あ」のつく言葉だから、
「新しい年が明けて・・・」と書き始める事が出来て、タイミングが良かったのに
あと一歩のところで うまく行かない。人生と同じだと思うのは、やや大袈裟か。

一旦おさまりがつかなくなると、曖昧模糊として考えがまとまらず、頭の中は
暗中模索の状態にて、青息吐息で悪戦苦闘し、阿鼻叫喚の苦しみを味わう。

何を隠そう アングラ出身である。
アフリカのアンゴラのことではないので、念の為。
1960年代後半から 70年代にかけて盛り上がった、実験的な表現活動や
前衛芸術運動などを称して 「アングラ」と呼んだ。

主にビルの地下などを会場にすることが多かったため、「アンダーグランド」を
省略した と一般的に説明されている。

〇次元による「ハプニング」から、唐十郎の「状況劇場」まで、ありとあらゆる形で
活況を呈していた。寺山修司の「天井桟敷」も、アングラだったのである。

新しいものを吸収しようと 必死だった私も、その洗礼をうけた。
「パフォーマンス」という「行為」にも参加したことがあった。

その精神は、今でも持ち続けていると 自負している。
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by rurou-no | 2007-01-04 15:10 | 演劇・ダンス

大野一雄さん

大野一雄という舞踊家と同時代に生き、一度でも彼の舞台に接することが出来たら
それだけで 幸運で良かったねと その人を抱きしめたくなる。

私が初めて彼の姿を見たのは、スクリーン上でだった。
映像作家の長野千秋氏による 「O氏の肖像」 「O氏の曼陀羅 遊行夢華」 「O氏の
死者の書」 
O氏三部作上映会。確か1977年のこと。
衝撃を受けた。探していた人を見つけた と思った。

初めてその舞台を目にしたのは、1985年 東京有楽町にある朝日ホールにて。
「死海 ウィンナーワルツと幽霊」 「ラ・アルヘンチーナ頌」 の2作品を2日間で。
この公演のあと、彼の弟子をしていた知人に紹介してもらい 挨拶をさせてもらった。
次の日、横浜にある彼の家を訪ねる。

秋の日の昼下がり、大野家の居間で紅茶をいただきながら 同じ時間を過ごした。
窓から入る光の加減が とても印象的だった。
一介の若造を相手に イスラエルの死海へ行った時のこと、アルヘンチーナの踊りを
初めて見た時のこと、それぞれの作品について 丁寧に穏やかな口調で話してくれた。
そして 母親のこと、クリスチャンである自分のことなど。至福のひとときであった。

70歳、80歳、90歳と年齢を重ねるごとに 全盛期を迎えていた。
現在、99歳。まだ舞台への意欲は 失われていないという。
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by rurou-no | 2006-12-23 14:27 | 演劇・ダンス


一瞬を、永遠に
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