一所不住



カテゴリ:子ども時代( 22 )


相撲場

大相撲夏場所は終盤戦に入ったが、今日はそこから離れて、禿頭爺にもあった子ども時代のお話。正真正銘「昭和」、そして離島の小さな漁村である。

島の東端に位置する集落は、海に近いハマと人家が密集するジゲがあり、禿頭爺少年の家はジゲからハマへ下りる途中にあった。どちらかというとハマに近く、遊ぶのはもっぱらハマの悪ガキ仲間とだった。敗戦後、十数年しか経っていないころだ。

こうして書きながら思い出したのは、モチノキの樹皮を削り取って細かく砕いたのを水で練って鳥もちを作り、木の枝に塗り付け、囮で呼び寄せたり口笛で鳴きまねしたりして、メジロ獲りをして遊んだこと。親類の家の庭にあったモチノキを削っていて、よく叱られた。

閑話休題、元へ戻ろう。相撲をとった子どものころの話をしようとしてたんや。
家からハマへ行く道沿いに広場があった。たぶん漁具置き場になっていたのだと思う。そこが、悪ガキどもの相撲場だった。地面に棒で円を引くだけで土俵の出来上がり。他に何もいらない。

その広場に面して四軒長屋が建っていた。一つ上のH君は母ひとり子ひとりの母子家庭、T君は兄と弟がいて、戦争で片腕を失くし義手をしたお父さんがいた。お母さんは島の外へ働きに出ていて、ほとんど父子家庭だった。まだ、ふつうに「戦争」が残っていた。
S君には兄さん姉さんのきょうだいが多かった。もう1軒は子どもがいなかったように思う。
長屋の向こうにK君の家があり、道を隔てて一つ下のY君の家があった。

禿頭爺少年はからだが大きかったので、相撲は割りと強い方だった(記憶はいい方へ更新す)と覚えている。立ち合って四つに組み投げを打ち合うことが多く、時に土俵外へ押し出すこともあった。禿頭爺が得意としていたのは、明武谷ばりのうっちゃり。わざと土俵際まで下がり、上半身を反り身にしてうっちゃりが決まったときの、してやったり感はなんともいえず気持ち良かった。

当時と比べ今の力士は体形が大きくなり、相撲内容までもが大味になってきた。相撲の醍醐味である技の攻防は少なく、パワー勝負の相撲が主流となっている。中には単なる格闘技と勘違いしている力士もいて、面白さも半減といったところか。
「す」はこれまでも「相撲節会」や「相撲場風景」など相撲ネタに。発想の貧しさがバレバレや。
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by rurou-no | 2016-05-19 14:08 | 子ども時代

ビー玉とビン玉

困った。「び」は「ビンボー」しか思いつかない。ほかに何かないか、と考えれば考えるほど「ビンボー」が頭の中を占拠して、思考停止に陥ってしまう。いかん、いかん。
抗議のデモを軍隊や警察を使って強制排除する、というのは独裁権力者の常套手段だが、いくら独善的に所有している自分の頭とはいえ、「ビンボー」を排除することはままならぬ。

その言葉を頭から追い出そうとしても、実態がそのままだから追い出しようがないのだ。
振り払っても振り払ってもまとわりついて離れようとしない、蜘蛛の巣か、山蛭か、とにかく長い付き合いの腐れ縁というものである。こうなると意地でも「ビンボー」をタイトルにしてなるものか。

と悪戦苦闘し、脳みそを覗いていたところ、隅っこのほうで子どものころの記憶を見つけた。
そういえば家の庭や近所の原っぱで、悪ガキ仲間とよく「ビー玉」遊びをした。
基本的には、あらかじめ決めたコースを辿りながら相手の玉を取り合う、というルールだ。
取ったり取られたりのバランスがうまく出来ていて、飽きもせず時間を忘れて遊びに興じた。

ゲームの面白さもさることながら、子ども心にビー玉の美しさに魅了されもした。
ただのガラス球というなかれ、小さな球体のフォルムとガラスの色がなんとも魅惑的だった。
ゲームを通して、より美しいと思う玉の収集、というもうひとつの目的もあったわけだ。

ガキ共のポケットはいつもビー玉で膨らんでいた(ほかに「かえし」や「くぎ」も入っていた)。
そして「ビー玉」の大きいのが、漁師が網を浮かべたりする浮き玉「ビン玉」である。
かつては海に浮かび、港にゴロゴロ転がっていたビン玉も役割を終えて見かけなくなった。

このビン玉で町おこしを始めたのが、那智勝浦町の「脇仲倶楽部」の方々。
球の中へ電灯を灯せるように加工したビン玉を、軒先へ吊るしたり通り沿いに置いてライトアップする。町の観光地図にも「ビン玉通り」として紹介され、観光客誘致に一役買っている。

ここで、喜多川歌麿の美人画「ビードロを吹く女」を思い出した。「ビードロ」って確かポルトガル語の「ガラス」のこと。江戸時代からガラスの玩具でポッピンと遊んでいたんやな。
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by rurou-no | 2013-06-13 13:54 | 子ども時代

ラジオ

もちろん今でもラジオの深夜放送はあるが、40年前の自分には特別なものだった。
まだパソコンもケータイも普及していなかった当時、情報は僻地の離島へは新聞かテレビを通してもたらされ、当然のことながら新しい音楽に触れる機会はほとんどなかった。
そうした欲求を満たしてくれる唯一の手段としてラジオの深夜番組があった。
それは、あたかも真夏の炎天下に何時間も歩き回り、やっと見つけた水場で喉の渇きを潤すかのようだった。
聴き始めたのは中学生のころからで、フォーク・ソング全盛期の懐かしい時代だ。そんな中、ラジオから流れてきたザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」でぶっ飛んでしまった。

高校生になり、親類の空き家で暮らすようになってからは誰に気兼ねすることもなく思う存分、ラジオの世界へのめりこんだ。
広い家の2階の一室を自室と決めて、深夜にラジオと向かい合った。
そこからは最新の音楽が次々とあふれ出てきて、未知の世界への憧れを強く抱いた。それは田舎の高校生を夢中にさせるに充分な力があった。

もっとも印象的に残っているのはアンドレ・カンドレの「カンドレ・マンドレ」。パーソナリティーが「次はアンドレカンドレのカンドレマンドレ!」と紹介した時の様子はしっかり覚えている。そう、井上陽水の歌声が初めて電波に乗った瞬間だった、と思う。不思議な響きの歌手名と歌のタイトルはなぜが耳にこびりついて離れなかった。そして曲もヒットすると確信したが、しなかった。
いつしかアンドレ・カンドレはラジオから消えてしまった。

その後、井上陽水として再デビューし「人生が二度あれば」がヒット。続く「傘がない」は新しい音楽が登場したと個人的には衝撃だった。 都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨 傘がない
ラジオの思い出だ。
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by rurou-no | 2010-04-02 14:03 | 子ども時代

コンチキ号漂流記

ノルウェーの海洋考古学者 トール・ヘイエルダール が1947年に自らの学説を証明するため
南米ペルーからポリネシアへ向けて航海したときの記録 『コンチキ号漂流記』 は私の人生を
決定付けた一冊と言っても過言ではない。
人は誰でも子どもの頃に読んだ本で、自分の生き方に大きく影響を及ぼした一冊というものが
あると思う。私の場合は間違いなくこの本であろう。

人一倍大きな体の赤ん坊だったのでおぶるのが重いからと誰も子守をしてくれず(当時はまだ
子どもが子どもを子守する習慣が残っていた)、ひとりでほったらかしだったとか。本さえあれば
静かにしていたらしい。幼児期にいたるまで本が私の子守役だったのだ。 (今でもそうか?)

保育園や幼稚園に行かせてもらえなかったから、子どもでも1人で歩いて行ける距離にあった
小学校へ行き、入学する前から教室に座って上級生と一緒に字を習った。早く字を覚え、絵の
そばに書いてある字を読んでみたい一心だった。

小学校の図書室にあった『コンチキ号漂流記』を読んだのは、漢字もそれなりに読めるように
なった4~5年生のころだったと思う。毎日眺めていた水平線の向こう側に続いているはずの
海が、時間と場所を超えて一気に繋がった。地球(海)の大きさや広さを認識した瞬間だった。

ポリネシアの人々は東南アジアからメラネシアを経て、島伝いにポリネシアへ移住したと信じら
れていたそれまでの学説に対し、民族学的考古学的見地から南米から渡ったものとの確信を
得たヘイエルダールが、古代から使用されていたバルサ材でいかだを組み南米からポリネシア
へ航海に出た。3ヶ月かけてようやくポリネシアへと辿り着く。

この冒険譚は子どもの心に魔法をかけた。あらゆる「知らないもの」への思い、憧れ。
気が付いたら旅を生き、好奇心一杯で「知らないもの」を知りたいと、それだけで生きてきた。
その成れの果てがここにいる。本は罪なもの、そして愛しいものだ。
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by rurou-no | 2007-08-27 15:32 | 子ども時代

ルーシー・ショー

この国に住む中高年と云われる年齢の人々の大部分が、この共通した言葉を持っている。
「テレビが我が家へやって来たのは、東京オリンピックの年だった。」
一部の裕福な家庭を例外として、一般庶民の家へテレビが普及するきっかけとなったのが
スポーツ・イベントのオリンピックだった。国を挙げてのお祭り騒ぎだったのである。

もう真っ暗な道を懐中電灯の明かりを頼りに、怖々と歩いて力道山を見に行くことをしなくても
よくなった。街灯なんて気の利いたものはなく、民家も建っていない夜の田舎道は月明かりと
星明りがあれば周りもぼんやりと見えるが、新月の時は真の闇となって何も見えないのだ。

四本足の小さな四角い魔法の箱は、知らない世界を次から次へと惜しげもなく映し出していた。
歩いて行ける範囲の限られた世界で生活し、たまに船に乗って島から町へ出るだけでも大事件
だったころだ。その箱の中の出来事に夢中になったのは云うまでもない。

最初に興味を持ったのは、まさに知らない異国を教えてくれたアメリカのテレビドラマである。
「名犬ラッシー」 「ララミー牧場」 「逃亡者」 「ラット・パトロール」 「ベン・ケーシ」 等々
そしてドタバタ喜劇の 「ルーシー・ショー」 も毎週欠かさず見ていた。

主演の ルシル・ボウル は、ハリウッドの女優として成功を収めてから、テレビ界へ転進した。
バスター・キートンハーポ・マルクス らとも付き合いのあったコメディエンヌである。
この番組は、お客さんの笑い声を入れるハシリだったそうな。

戦争で日本を負かしたアメリカという国はすごい国なんや、と無条件にアメリカを受け入れて
いた。テレビに映るアメリカ人とその生活スタイル、街並や風俗など何もかもがすごかった。
コンプレックスの裏返しで、憧れの気持ちが大きく膨らんでいったのだった。
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by rurou-no | 2007-06-21 14:23 | 子ども時代

力道山の空手チョップ

タイトルからして大昔の話で、申し訳ない。
一家に1台から1人に1台、そして今は携帯して持ち歩けるようになったテレビ。
私が小さいころはまだ、地域でテレビを持っている家は1軒か2軒しかなかった。
視聴できるのも、NHKが2局と民放が1局だけ。それも四国から海を越えて電波が届いた。

小学校にも観音開きの扉が付いたテレビがあり、大相撲が始まると放課後にみんなで講堂
へ集まって中継放送を見た。大鵬柏戸の時代である。

そして週1回、金曜日夜8時からの楽しみがプロレス中継。これはテレビがある家へ行って
近所の人たちと一緒に見ることになっていた。真剣勝負をしていると思い込んで応援にも力
が入った。ヒーローの 力道山 が必殺の空手チョップで、〈吸血鬼〉フレッド・ブラッシー
〈謎の覆面レスラー〉ザ・デストロイヤー などの悪役外人レスラー たち、をやっつける姿に
喝采を送った。いつも最後には力道山が勝って無敵であった。

子ども心に強い力道山に憧れていた一方で、力道山とタッグを組んでいた吉村道明の存在
が気になっていた。常に外人レスラーたちの反則攻撃により、血だらけになるほど痛みつけ
られる役回りで、力道山が怒りの空手チョップを炸裂させるまでの間、殆んどリング上でやら
れっぱなしになっていた。それでも時おり見せるハイジャンプのドロップキックや、逆転の回転
エビ固めでフォール勝ちしたりもする。その脇役に徹した姿勢に興味を抱いた。

だんだん大きくなるにつれ、沖識名レフェリーの名演出によるショーであることに気付き始め
るが、「あんなん八百長や!」「八百長ちゃうわ!」と言い争いをしていた頃が懐かしい。
その後ジャイアント馬場の16文キックに魅せられた。そう、猪木派でなく馬場派だったのだ。
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by rurou-no | 2007-06-13 14:16 | 子ども時代

小諸なる古城のほとり

  小諸なる古城のほとり   雲白く遊子悲しむ   緑なすはこべは萌えず
  若草もしくによしなし   しろがねの衾の岡辺   日に溶けて淡雪流る
  あたたかき光はあれど   野に満つる香も知らず   浅くのみ春は霞みて
  麦の色わづかに青く   旅人の群はいくつか   畠中の道を急ぎぬ
  暮れ行けば浅間も見えず   歌哀なし佐久の草笛   千曲川いざよう波の
  岸近き宿にのぼりつ   濁り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む


中学校の国語の時間に暗誦した 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 は今でも諳んじ
て時々口をついて出てくる。脳みその柔らかいころに覚えたものはいつまでも忘れない。
藤村はそのころ 「破戒」「夜明け前」 などを読んだ。

歌に詠まれた小諸城跡は《懐古園》として観光公園になっていた。
JR最高度の駅《野辺山》がある小海線で小諸へ行ったのは、まだ10代のころだったか。
鉄道ファンなら小海線へ乗ることが目的だったりする人気路線だ。最近は《八ヶ岳高原線》の
愛称が付いているらしい。

懐古園には《藤村記念館》があり、千曲川や浅間山も見える。一日中でも遊んでいられる所
である。私は例によってその場に立ち、空気をおもいきり吸い込んでみた。
歌を思い出しながら歩いて、その世界を空想の中で疑似体験する。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」
「つれづれなるままに日暮し 硯にむかひて 心にうつりゆくよしなし事を 
                    そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」

「次の時間までに覚えてくるように」との、無情の通告のおかげでいろいろと暗誦したもんだ。
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by rurou-no | 2007-06-12 11:01 | 子ども時代

鞍馬天狗

「子どものころチャンバラごっこをした!」と、大きな声で言えるのは幸せな世代だ。
今の子どもたちは危ないからと、チャンバラすらできなくなってきているらしい。

とにかく鞍馬天狗は、子どもたちのヒーローだった。大佛次郎 の原作小説は読まなくても、
アラカンこと 嵐寛寿郎 が杉作役の 美空ひばり と出ていた映画は誰もが知っていた。
私が覚えている天狗役は、東千代之介市川雷蔵 である。

風呂敷で鞍馬天狗の宗十郎頭巾(イカ頭巾)を真似て形を作り、腰を紐で結び棒を差す。
皆が鞍馬天狗になりたがるから、鞍馬天狗同士のチャンバラになってしまう。
斬られた方は大袈裟に芝居をしながら倒れるのが約束事だった。

丹下左膳も大好きだった。片目片腕で「しぇいはたんげ、なはさじぇん」と言ってから始める。
知っているのは 大友柳太朗 の左膳なのに、口上の「姓は丹下、名は左膳」を言おうとする
と何故か 大河内傳次郎 風になってしまうのだ。丹下左膳をやる時は、左手しか使えない
うえに片目をつぶっているから距離感が判らず、たいてい負けてしまう。

それに斬られて大袈裟に倒れるのが面白いから、わざと斬られたりもする。いかにギリギリ
まで張り合って、巧く斬られるかが芝居心を試される。倒れたあとは「いまのはみねうちじゃ」
の言葉を待って、すぐに起き上がりチャンバラ再開という手筈だ。

子どもながら真剣勝負で斬り合いをするから、生傷が絶えなかった。たとえ怪我をして血が
出ていても、唾をつけておけばいつの間にか治っていた。傷跡がかさぶたになったらそれを
剥がすのがまた楽しみだった。相手を斬る時は痛くないようにと寸止めの要領も身につけた。

まぁチャンバラを懐かしがっているなんて、時代錯誤も甚だしいとお叱りを受けそうだ。
ヒーロー像が様変わりした今はもう「絶滅遊戯」として語られるしかない運命か。
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by rurou-no | 2007-05-31 15:47 | 子ども時代

木枯し紋次郎

 木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという。十歳の時、国を捨て
 その後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎が、なぜ無宿渡世の世界に入った
 かは定かでない。愛を求めてさすらう旅か、孤独を求めてさすらう旅か、縞の合羽に三度笠 
 口の楊枝がヒュウと鳴る、あいつが噂の紋次郎。


芥川隆行 の名調子が耳にこびりついている。TV時代劇 「木枯し紋次郎」 の冒頭シーン。
上條恒彦 が歌う 「だれかが風の中で」 がバックに流れる中、山道を早足で歩く紋次郎。

 ♪どこかでだれかがきっと待っていてくれる 雲は焼け道は乾き陽はいつまでも沈まない
  心は昔死んだ微笑には会ったこともない 昨日なんか知らない今日は旅をひとり
  けれどもどこかでお前は待っていてくれる きっとお前は風の中で待っていてくれる♪


高校生のころはまだ TVをよく見ていたと思う。笹沢佐保 の小説を原作に、市川崑が演出
していた。主人公が泥臭くて不恰好で、それまで見たこともない時代劇に夢中になった。
型をまったく無視したへっぴり腰のリアルな立ち回りは、単に斬り合いでしかなかった。

「あっしには関わりのねえことでござんす」 と言いながら、いつの間にか困っている人を助け
ている。クールでニヒルな主人公を体現していた 中村敦夫 は、カッコよかった。

ナレーションでは天涯孤独な紋次郎が、主題歌では風の中で待っていてくれるヒトかモノか
それを見つけるためにさまよっている。いったいそれは何なのか、いつも考えていた。
他人と距離を置こうとしながらも、関わらずにいられない旅烏、渡世人。徹底した個人主義が
実は極めてヒューマンな心根の持ち主であった。新しいヒーロー像に喝采した。

同世代の男なら誰しも覚えがあるはずだ。爪楊枝を咥えて紋次郎を気取ったことを。
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by rurou-no | 2007-03-22 14:19 | 子ども時代

走れメロス

連れ合いが友だちと一緒に 「本州最南端から・・・」(樫野ブログ) というのを開設した。
歴史的にみて、重要な地である 「樫野」 がないがしろにされ、忘れられようとしているから
もっと 「樫野」 を知ってもらおうとの魂胆である。いわば 「樫野」 応援団。

その余波を受けて、「樫野」 出身の私は色々と質問攻めに遭い、おかげで昔のことを
少しづつ思い出している。かつての風景が頭の中で、甦りつつある今日この頃である。

10代の終わり頃、人並みに 「太宰病」 に罹って片っ端から 太宰治 を読んだ時期が
あった。どういう訳か一定期間に集中していて、それ以降は読まなくなった。

「走れメロス」 はこの時に読んだのではなく、確か小学校の教科書か副読本でだと思う。
前に取り上げた 「プロメテウスの火」 と同じように、学芸会で劇にしたことがあったのを
思い出したのだ。
複式学級でずっと同じ教室で勉強していた、一つ上の人たちがやったような気がする。

メロスは処刑される直前、3日間の猶予を願い出る。代わりに無二の親友を人質として
差し出す。村へと帰り妹に結婚式を挙げさせて、約束通り殺される為に戻ろうとする。
途中、豪雨で川が氾濫し橋が破壊されていた。メロスは濁流を泳ぐ。そのあと山賊に
襲われるが撃退する。灼熱の太陽に照らされて倒れたとき、一瞬心に迷いが生じる。
一杯の水で生き返り、友が処刑される寸前に辿り着く。信頼して待っていてくれた友を
裏切ろうとしたメロス。友もまた一瞬だけメロスを疑った。だが約束は守られた。
人間不信に陥っていた王は2人を祝福する。


メデタシ、メデタシ。おそらく小学生用に要約されていたのではないか。改めて読み直して
みると、人間不信の王、信頼しあうメロスとセリヌンティウス、という単純な図式では収まら
ない人間心理の機微の奥深さが描かれている。太宰、侮るなかれ。
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by rurou-no | 2007-03-10 14:25 | 子ども時代


一瞬を、永遠に
S M T W T F S
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