一所不住



カテゴリ:病気( 15 )


2度目

金曜日の深夜(土曜日の午前3時半ごろ)、スペクタルな夢から目覚めて「ほっ」とひと息ついた瞬間、「いでででででぇぇぇ!!」と思わず口に出してしまった。
この夏2度目の例の「痛!」の再発だった。こんなこと初めてや。

例年だと、痛み止めと化膿止めの薬で痛みと腫れが収まったら、尿酸値を下げる薬を飲み続けて夏をやり過ごす、という既定のとおりで問題は生じなかった。
これはどういうことや?土曜日(27日)は遠出しようかどうか迷っていた日だったが、それどころやなかった。

体調不良の元である最高値211-137だった血圧は、4月下旬に降圧剤を飲み始めてから高い方は180台~160台~140台と順調に下がって時には120台を記録したものの、夏になるにしたがって再び上昇し、最近は130台から160台を推移している。
今日の昼、連れ合いが計っていたのでついでに計ってみると、173-111だった。
朝は157-107だったから、また高なっている。なんちゅうこっちゃ。

そうそう、手首を刺したハチはミツバチだと思っていたが、舞い戻って悠々と飛んでいるのを観察したところ、どうもアシナガバチのようだ。やれやれ。
草取り中に咬まれたのは死人まで出たというマダニだし、からだにダメージをあたえることが続いた。とまあ、散々な夏になった。

心配していた台風10号は、観測65年にして初めて太平洋側から東北地方に上陸して、東北と北海道は大変な被害となっている。自然災害の怖ろしさは、川の氾濫や山崩れが繰り返されても繰り返されても、小さな存在である人間には太刀打ちできないことである。自然へ畏怖の念を忘れないようにするしかない。

このところ、本棚の本の再読を重ねているが、先月末に読んだ 西加奈子の『通天閣』は、読後感がなんともいえずいい気分だった。作家の物語る力もさることながら、彼女の人柄まで想像できそうで嬉しくなる。そして今再読しているのが、 佐藤泰志『海炭市叙景』。読んでいて、まっさらで汚れのない空気が文字を包んでいるのを感じた。

そんな時、連れ合いから同じ様な言葉を聞いた。職場の同僚が、ある妊婦さんを見て「周りの空気がきれい」と言ったそうだ。似たような感じってあるんや。

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by rurou-no | 2016-09-02 16:52 | 病気

やっとかめ

「やっとかめ」は漢字で書くとわかりやすい。「八十日目」、つまり人の噂(七十五日)にものぼらなくなるくらい久しい期間、との認識でええやろか。
前回の投稿は1年ぶりだったし、今回は1ヶ月ぶりになる。まぁ、やっとかめということで。

さて何を書こうか、これだけ間があくと頭は長い夏休みで稼動停止状態だし、キーボードをたたく指もぎこちない。すっかり呆けた老人と化してしまった己の姿にあたふたする。
そうや、憚りながらこの呆け老人は目出度く還暦を迎えたのである。そしてその翌日、克服したと安心していた痛いアレが再発したのだ。こちらのやっとかめは3年ぶりになる(と思う)。

泣きそうになりながらかかりつけの医院へ行くも、自分の車はクラッチを踏む左足が使えないのでオートマ車を借りて行く。このときばかりは技術の進歩にひれ伏すしかない。オートマ万歳や。
はじめの1週間はまったく動けなかった。食べるときと出すときと風呂のとき以外は定位置を死守した。食事、排泄、入浴とは介護の三大要件だが、まだまだ泣きながらでも自分でやれるぞ。

4週間経った今は何とか痛みは和らいできたものの、まだ日課にしていたストレッチはできない。からだを動かさず食べてばかりだから、腹のあたりが目立ってだぶついてきているのがわかる。片足を引きずりながら変なかっこうで歩いていたせいで、他の部分に余計な負荷がかかり、いろんなところが痛くなってきた。
まったく、踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂とはこのこと。神仏の祟りは弱っている者にやってくる。

「還暦」で新しい何かが始まるのかと思ったら、いきなり現実のままならなさを思い知らされるとは。先の見通しは決して甘くないとの示唆と受け止めよう。いや物事は考えようで、最初につまずいておけば後は起き上がって歩いて行くだけ。いいことの前兆かも、なんて能天気甚だしい。

ともあれ、今回は新聞で見つけた言葉で締めよう。『論壇時評』の高橋源一郎氏「作家としての責務とは何か。それは、彼(女)らを攻撃している者たちが考えるより、現実はずっと複雑で、豊かであると伝えることだ」「人々が攻撃的になるのは、視野を狭くしているからだ。世界を、広く、深く、複雑なものとして見ることを忘れないようにしたい」
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by rurou-no | 2014-08-01 14:25 | 病気

つんぼ

「つんぼ」は差別用語として新聞掲載禁止、テレビ・ラジオ放送禁止と冷たい仕打ちを受けているけど、つんぼ本人が使う分には誰も文句は言えないはずやろと「つ」始まりのタイトルに決定。

生まれつき右の耳が聞こえず、子どものころはよく「つんぼ」といわれた。それで特にいやな思いを味わったことはない。つんぼやから聞こえにくうてもしゃぁない、とそのまま受け入れていた。。
おまけに中耳炎で、小学生のときは右耳を黒い袋で包んでいるのがふだんの姿だった。

10年前の秋までは多少の不都合はあっても、なんとか左耳だけでやってこれた。
話が聞こえなくて、なんとなくつんぼ桟敷(これはれっきとした劇場の用語)に置かれていると感じることはあっても、もともと人と群れるのは好まない性質だったので疎外感も苦にならなかった。

ところがどっこい、原因不明の突発性難聴というやっかいなものに取り付かれてしまい、〈聴力喪失→中途半端な快復+止まない耳鳴り〉が日常となった。耳の中に蝉を飼い続けて10年だ。

補聴器がないとほとんど聞こえないくせに、補聴器に違和感があり出かけるときだけしか付けない。よって家では連れ合いが大変な思いをする。
補聴器の助けを借りても聞こえにくいため、出かけるのが億劫になった。友だちと会うのすら面倒になってきた。ましてや大勢の人が集まるところなんて、頭が痛くなるのでとても行けない。

民博の広瀬浩二郎准教授は13歳で失明したそうだ。『民族学』誌上で、色気=色の気配の作品制作を報告している。「さわって創る」過程で、「視覚を使わない開放感」=「めくらめっぽう」の醍醐味を体感した、と記していた。
広瀬さんは、眼を使う人を「見常者」、視覚に障害のある人を「触常者」とよんでいる。「観察」に対して「触察」という言葉もなるほど、と肯いた。

三宮麻由子さんの場合もそうだが、新しい世界の捉え方を教えてくれる。
この禿頭ジジイも、頭の表面を光らせているだけでなく、中身の方をもっと磨かんとあかんなぁ。
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by rurou-no | 2013-02-16 17:24 | 病気

しゃれやのうなってきた

前回の投稿で、花粉のシャワーを浴びたからだの反応を観察する、なんてバカなことを書いているうちはまだ余裕があった。
あのあとすぐ、てきめんに影響が現れた。「しゃれやないでぇ、ほんま」というのが実感である。

長い付き合いで対処の仕方もそこそこ身につけてきたし、ここ数年は漢方系の飲み薬のおかげで症状も幾分かマシになってきていた。
そろそろ腐れ縁を断ち切る、のは無理でもなんとかうまく付き合っていくことができるかもしれないと、淡い期待すら抱くようになっていた矢先だったのに。

世の中ままならぬ。長い人生、思うようにならないことのほうが多い。
というわけで今、悲惨な状態に置かれている。

目が痒い、開けてられない、涙が出てくる、できるなら目玉を取り出してゴシゴシ洗ってみたい。
鼻水はところかまわず、突然やってくる。寝ていても、だからおちおち眠れない。
くしゃみは平均5~6回連発で、腰に響き腰痛持ちの小生にはつらいものがある。それに全身を使ってするので相当なストレスとなる。

ここのところ眠れない日が続いている。
首から上が常にボーとしている。集中力がなくなるし、本を開いても同じところを行ったり来たりしてなかなか先へ読み進めない。もちろん内容は頭に入るべくもない。

とまぁ、情けないことばかりつらつら書き連ねるのは、こんな年もあったと残しておきたいから。
3月下旬まで山行きは避けられないため、まだまだしっかりと花粉を浴びるだろう。
「より酷い」のを経験することで「少し酷い」のが楽になれるのなら、この試練も乗り越えることができる。とは、ちょっと大仰な物言いになり過ぎた。
まぁ、しばらく悪戦苦闘で無駄な抵抗をしてまっさ。
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by rurou-no | 2012-03-05 09:58 | 病気

森の噴射

この季節に里山から森へ続く道を歩いていると、盛りを迎えた瑞々しいウメの花をここかしこで目にする。花を比べるのは無粋なことかもしれないが、実のところ美しさへの自己主張が過ぎるサクラより遠慮がちに小さな花弁を開くウメの方に肩入れしたい小生には眼福である。

さらにウメの近くにツバキがあれば、赤と白の対比に得も言われぬ風情を感じて思わず足を止めてしまう。しばらく見惚れていると、どこからか ♪コトコトコットンコトコトコットン仕事に励みましょ~♪ と歌が聞こえてきて我に返った。

こんな能天気なことを書いている場合ではない。
春は花粉症キャリアのベテランには耐え難い季節なのだ。こんな時期に仕事とはいえ山道を歩くなんて、わざわざ花粉を浴びに行くようなもの。そして文字通り全身に浴びてしまった。

これまでも、対岸から川向こうの山が花粉を飛ばしているのを見たことはある。
うわーっかなぁんなぁー!と思いながらも、距離が離れていたからまだ余裕があった。
それが、目の前で起きたのである。

26日午前10時半ごろだった。場所は県道城すさみ線、太間川小学校跡地の近く。
2mほど離れたところにあったスギが突然、深呼吸をするかのように大きく上下したかと思うと3度に亘って花粉を噴射した。音まで聞こえそうな勢いだった。
あまりに見事な噴射と遭遇し、その場で固まってしまった小生は花粉のシャワーを存分に浴びる結果となった。

目が痛痒いし、涙が出てくる。鼻もつまり気味だ。くしゃみは連発式で腰に響いて体力を消耗する。
目を開けているのがつらくて本を読めない。車の運転はなんとかやれる。夜もまったく眠れないわけでない。逃げ出せないから開き直るしかないが、どこまで酷くなるのか、恐怖である。

ものは考え様、今年は花粉シャワーを浴びたこのからだをそのまま実験個体として、どんな症状が出てくるか観察する楽しみが出来た、と歓迎することにしよっ。
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by rurou-no | 2012-02-28 14:28 | 病気

Shit!

読者の少なさでは群を抜くブログゆえに品位を旨としたい、と常々気をつけてきたのに今回は「Shit!」なんて言葉で恐縮である。くそったれ!と品性を疑われるようなタイトルになったのには深い、いや痛い事情がある。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざは何かにつけ引き合いに出されるが、それとは関係なく「風が吹いても痛い」例のアレがアレして、思わず自分の左足に向かって下品な言葉を発してしまったのが、ことの次第。

昨日、急に「発作」が出た。去年の夏以来のことで、もう大丈夫だろうと安心していた矢先だった。そもそも大阪にいたころから原因不明の足の痛みがあり、骨折をしているわけではないと我慢していた。それが5年ほど前にどうにも我慢が出来なくて病院へ行ったところ、診察した医師はうれしそうに笑みまで浮かべて「痛いでしょう」とのたまうではないか。「痛いから来たんですよ、何とかしてください」と涙目で訴えても、ニヤリとして「痛いのはよく分かります。実は私もなんです」と同好の士を得た喜びを隠そうともせず「痛み止め出しときますね」とのんびりしたもの。脂汗を流して耐えていた痛みは、まさか自分には縁がないと思い込んでいた病名だった。

たとえば音がするだけで、音の波が当たって痛い。それが大きな音なんかだと波の大きさに比例して痛みは倍増する。友人は猫が前を横切っても痛い、と話していた。何も起こらず、じっとしているだけでもズッキン、ズッキンと痛みが襲ってくるから当然だ。昨日はあいにく日曜日だったから「明日まで我慢」と言い聞かせるも、とうとう昨夜は眠れず布団の中で唸っていた。

今日になって病院へ行くのがまた、ひと騒動。愛車ジムニーはミッションだった。痛い左足でクラッチを踏まないとギアが入らない。この時ばかりはミッション車を選んだ自分を呪った。坂やカーブが多い田舎道の上に、今日に限って信号にもよくつかまるのはどういうことだ。左足の痛みは足先だけでなく股のところまで上がってきた。そして帰路はあまりの痛さで気を失いそうに。
こんなんが一生ついてまわるなんてどないしょ。まぁ父親から受け継いだものやからしようないか。
というトホホの顛末。Shit!
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by rurou-no | 2010-05-24 14:40 | 病気

右がわ

右側は、いつも遠くにいる。
まるで望遠鏡を逆の方から覗いたとき、のようなものだ。
物体はほとんど確認できないため、用を成さない。
初めからそうだったので、そんなもんだと思っていた。
仕事はもっぱら左側が引き受けてきた。
けなげにも片側だけで粉骨砕身する姿は、とてもまともではなく嘲笑を誘った。
事情が分からぬ者には、変な奴にしか見えないから無理もない。
その左側もある日、とうとう役に立たなくなった。
それは突然、やってきた。
目の前が真っ黒に、この場合は真っ白になったという方が近いかも知れない。
最初は「無」だった。
少し経って、懐かしい思い出に包まれた瞬間もあった。
次に大量の「有」が一挙に押し寄せてきた。
ありとあらゆるものすべてだ。
許容量を超えた器は破裂。
間断なく繰り返される暴力的なまでの「有」は、間断ないからこそダメージが大きい。
終わりなき行為は、いとも簡単に精神のバランスを壊してしまう。

あらら、もう壊れてしもたんかいな。と思うような危ない文章になってしもた。
そんなつもりはなく、選挙を前にして政策抜きの利害だけで動く政治家を、家人が「イデオロギーはないのか!」と怒ったので、「み」から始まる言葉として「右がわ」が浮かんだだけ。なんぞ気の利いたことを書こうと思っていたのに、自分でも訳が分からないお粗末な内容でご勘弁を。
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by rurou-no | 2010-05-12 14:09 | 病気

洋画は○ 邦画は△

映画館の音量は大きいので、問題はないかも知れないと 希望的観測の
確認をするため、3ヶ月くらい経ってから 近くの映画館へ出かけた。
邦画2本立を見る。
1本目はシリアスなストーリーの展開で、音は聞こえども台詞は聞き取れず
内容がよく分からないままであった。
2本目は喜劇だったから、台詞は聞き取れなくれも 話の流れは読み取れた。

結局この時に露呈した問題が、今に至るも 変わらず残っている。
相手の声は 音として届いているものの、言葉として内容が掴めないのだ。
人と話をする時は、相手の言葉を聞き取ろうと必死になるので 非常に疲れる。
それに向かい合わないと 声と言葉が届いてこない。
他人同士の会話は、そばにいても聞こえない。
大勢が銘々で喋り合っている場などでは、ただノイズ音が 増大するばかりで
目の前にいる人の声さえ 判らなくなくなる。

誰とも話さないでいられたら 楽なのだけど、社会生活を送っている限りは 
人とのコミュニケーションは欠かせないから 困る。

と、つらつらと不自由なことを 並べてはみたものの、どうにもならない。
洋画は、字幕があるから 殆んど問題はない。
日常会話にも、字幕が付いてたら良かったのに。
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by rurou-no | 2006-11-10 16:40 | 病気

十三峠

十三湖は、坂口安吾「桜の森の満開の下」
この十三峠は、「伊勢物語」で 在原業平が高安の女の所へ通うために
越えたと伝えられている。
また 聖徳太子が法隆寺から四天王寺へ行くのに、通ったとも言われる。

生駒山には、北から 暗峠 鳴川峠 十三峠 と、3つの峠がある。
河内から大和へ(或いは大和から河内へ)と向かうには、これらの峠を
越えなければならない。

療養生活中、生駒の森を縦横無尽に歩き回った。
そして峠に差し掛かるたび、しばしば感傷的な気分になるのが常だった。
自分の身体感覚 時間感覚が、タイムスリップして 昔そこを歩いた人に
乗り移ったような錯覚を覚える。
さては物の怪に化かされたか、軽い目眩で 一瞬我を失う。

と、ここまで書いて いったん送信しようとしたら、エラーになってしまった。
そのあと何度試しても 送信できない。
どうやらパソコンの中にも 物の怪が進入したようだ。
生駒の闇の世界を 覗いてしまった所為かも知れない。
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by rurou-no | 2006-11-08 19:13 | 病気

山のエネルギーを

その効果の程はともかくとして、森の霊力が耳鳴りを収め 聴力を取り戻してくれると
そんな気がして、退院後は毎日 生駒山へ足を運んだ。
森林浴では言葉が優しすぎる、山のエネルギーを吸収するぞ との気概であった。

そのうち鳥の囀りに始まり、風の音、木々の葉擦れの音、そして落ち葉を踏みしめる
足音と 少しづつ順番に聞こえるようになってきた。

季節は晩秋、彩り鮮やかに日々表情を変えていく 森へ分け入る。
まるで映画の1シーンかのように、とめどなく真っ赤な葉が降ってくる妖しさには
現実感はなく その場に立ち尽くして、見惚れているしかなかっった。
頂上付近には、すっかり葉が落ち 裸木となった幹と枝の幾何学的造形の美しさ。

そんな折、生駒山のもう一つの姿を 垣間見る。
沢沿いの其処彼処に 行場と修験道寺院が点在しており、路傍には地蔵群。
一方で 在日コリアンの信仰の拠り所となった、朝鮮系寺院がいくつかひっそりと
隠れるように建っている。
奈良県明日香村にある石舞台を そっくりそのまま小さくした古墳が、ルートから外れた
山の中腹で 深い森の中に埋もれている。
朽ち果てた庵があり、漢方薬の工場が一帯に匂いを撒いていた。

いつしか、自分のことは忘れて 遠くからは窺い知れない山の秘密を 覗いて歩く
行為に夢中になっていく。
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by rurou-no | 2006-11-04 12:41 | 病気


一瞬を、永遠に
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