一所不住



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鈍色の空朝露に地の揺らぎ

19日、早めの昼ごはんを食べ始めた矢先、足下からズンと突き上げられ、続けて小さな横揺れがあった。
数年前から「近い将来」と聞かされてきたのが、いよいよ現実になったのかぁと思っているうちに、連れ合いが「とにかく外へ出よう」と飛び出したので後を追った。

庭で緊張して次の揺れを待ったが何事もなく、まずは情報やとテレビをつけパソコンを立ち上げた。震源地は和歌山県南部、地震の規模はM5.4、最大震度4(ここら辺は3)で、大した被害はなく収まった。

各地で頻発する地震を知らされるにつけ、南海、東南海地震も近づいているとの危機意識が強くなる。津波がやってきたらひとたまりもない町である。
やれやれと安心していたところ22日朝、福島県沖でM7.4、最大震度5弱の地震があった。気象庁は、2011年東北大震災の余震との見解だが、今日も揺れているそうだ。

20日、日曜日に「文化の秋、美術鑑賞ツアー」と名付け(今、思いついて名付けたばかりやけど)、県庁所在地にある近代美術館へ出かけた。
お目当ては『動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち』という長いタイトルの美術展。

マネやセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ルノワールなど、当時先駆的な西洋画を雑誌で紹介し、その影響を受けた若き画家たちの展覧会をプロデュースしたのが、和歌山市出身の元祖アニメクリエイター北山清太郎だった。
好きな画家は勿論、名前を知らなかった画家との出会いもあってそれなりに楽しんだはずやったのに、そのあとにあった信じ難い出来事でせっかくの印象が霞んでしまった。

美術館併設のカフェへ立寄ったところ、ここへいちいち書き出しても「そんなことありえへんやろ」と、まともに聞いてもらえないようなことが立て続けに起きたのだ。
そのショックは、夢にまで現れたほどである。しばらくは近代美術館へ行かないようにしよう、カフェへは絶対に入らないようにしよう、と心に誓った。

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by rurou-no | 2016-11-25 11:04 | 地域

「御熊野」やのうて「三熊野」やった

この地方にひらがな表記の「みくまの農協」と「みくまの支援学校」がある。この「みくまの」は「御熊野」のことだと勝手に思い込んでいた。正しくは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の「三熊野」からきてるんやね。確かめていないけど。

紀伊半島の南部は一帯を「熊野」と表して、西側は「口熊野」で、東側を「奥熊野」と呼ぶ。
熊野の真ん中にあるのが前記の熊野三山。そこで禿頭ジジイの思い違いは、この熊野三山周辺域を敬称付きで「御熊野(みくまの)」とするのだと思ってたが、そのまま「三熊野」なんや。
「御熊野」は素直に「おんくまの」でよろし。古文書の「御」の読み方はややこしのでかなん。

連れ合いが図書館から借りてきた 『熊野の廃校』 は和歌山大学の中島敦司、湯崎真梨子両教授による熊野地方の廃校を調査したもので、廃墟マニアにはたまらん内容となっている。
本のタイトルから「みくまの」の勘違いを思い出して、今回のタイトルとなった。

まえがきによると筆者らは、「防災拠点としての活用方法を探る」動機で廃校調査を始めたところ、「魅了したのは廃校と密接に関わる土地の風土、集落の盛衰、地域社会のありようだった」そのため、「明治の創設期に至るまで、立地場所の変遷を追跡し辿るという膨大な作業に向かうことになった」。熊野地方の廃校跡をあまねく訪ね歩き、地域社会の変遷史にまで踏み込んだ貴重な資料集である。

お上の御達しとはいえ、明治期に子どもの教育のため地域社会が出資して学校を設立した。
いつの時代でも地域とともにあり、人の移動による開校、閉校もまた地域の事情に左右された。
熊野の山中を歩いていると、子どもがいなくなった山間地に、廃屋同然で放置されたままの廃校を目にすることも少なくない。

一方で筆者らは、作られた田舎のイメージとノスタルジアによる、補助金頼みの安易な廃校利用へ警鐘を鳴らす。本の帯に「村から人が消え、学び舎は廃校になった。だが、どんな辺境でも、地域が活き活きと存続した事実は永久に刻印される。」とあった。そのとおりや。

もっともこの禿頭ジジイの場合は、廃村や廃校跡に立って、人びとが暮した痕跡や子どもたちの(聞こえていたはずの)声などから、想像をたくましくするのが好きな変人にすぎない。
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by rurou-no | 2016-03-10 13:18 | 地域

新年早々の

年が変わり早や1週間経った。今日は七草。元旦は例年通り実家で御節と雑煮を供にし、やや食べ過ぎた年寄り2人は腹がへらないと、昼は菓子と紅茶で済ませて、のんびりしていた矢先の午後2時8分、二つの携帯が同時に鳴った。

新年早々の人騒がせなエリアメール。【津波観測情報 和歌山県沖にて大きな津波の観測がありました。至急高台など緊急避難先へ避難し今後の情報に注意してください。なお、大津波警報、津波警報が発表されている間は、海岸・河口付近へ近づかないでください。(和歌山県)】

ここは岬の台地にあるため津波避難の必要はないが、海に近いところに住んでいる連れ合いの母親を避難させたほうがいいのか、地震の揺れは感じなかったので、まずは情報収集をとテレビとパソコンを確認するも、何の速報も出ていなかった。いったいどういうことや?と何らかの間違いを疑っていたところ、3時ちょうどに再び携帯音。

【津波観測情報(続報) 和歌山県沖にて観測される津波が更に大きくなっています。至急高台など・・・以下同文】 ますます訳が分からなくなってきた。そのあと3時15分、【緊急速報メールについて 本日1月1日14時8分ごろに和歌山県から津波からの避難を呼びかける緊急速報メール・エリアメールを県内全域に送信しましたが、地震の発生は確認されていません。なお、メールを配信した原因については調査中です。(和歌山県)】

そして5時4分、やっと【津波の誤報メール(お詫び)】というのが送られてきた。4日、県知事が「初歩的なミス」と釈明。おそらく振り回された大勢の人がいたろうに、まるで他人事だった。単純ミス(潮位データ入力もれ)にもかかわらず、誤報を知らせるのに2時間以上も掛っている。もし逆の場合のミスなら大惨事になっていた。県民は正しい避難通知すら信用しなくなるやろ。

年頭から春先の陽気が続いている。ビンボーな老人には暖かいのは助かるが、冬は寒くないと困る人もいるわけで、暖冬もほどほどにしてもらわないと。
ということで、今年もしりとりタイトルの駄文事始め。いったいどこまでいくのやら。
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by rurou-no | 2016-01-07 11:02 | 地域

多事多端なり

同じ町内であっても、実家とは離れた地区に住んでいることで逃げ場所があったから、まだましだった。田舎の初盆は多事多端、さまざまな決まりごとが静けさを追いやって、慌ただしい盆行事にしてしまう。
ある意味、しめやかな悲しみに浸る暇を与えない、生活の知恵なのかもしれない。

生まれ育った地は、半島の突端の町から(今は橋で繋がったが)海を隔てた島の、もっとも遠いところに位置する小さな集落、僻地の中の僻地である。
閉鎖的な気質は、古くからの習俗も変わらず伝承されることが多い。

11日に檀那寺へ地区の役員や初盆の家族・親戚など大勢参集して新仏をお迎え(何というのか知らない)する。そのあと精霊棚飾り、翌日に棚経、という段取り。
14日、15日に地区の人はみな、初盆の家を順番に廻ってお参りする(今年は七軒)。
もちろん供養の盆踊りもあって、16日は精霊さま。小船に乗せ海へ送る(最終的に焼却)。

田舎で暮らすのは大変なんや、と改めて思う。風習やしきたりに否応はなく、有無を言わせず参加が求められる。勝手は許されず、慣例に従うしかない。
幸いにして、出生地にも住居地にも根を張らない中途半端な状態は、周りから何の期待もされない楽なポジションだ。無責任ともいえる。それでも逃れられない付き合いはあるけど。

この1週間は非日常の時間が多かったせいか、あれっもう木曜日かぁ、次は何からやったんかいな、とパソコンに向かう体たらくだ。
実際は「多事多端」というよりも、自分の意思で行動するのでなく、決められた器に合わせていく作業がストレスとなって、疲労を残した。

そうそう、14日午前3時半ごろ、彗星を見た。連れ合いが寝る前に「今夜は3時ごろ彗星が見れるって」と言ったので、バカ正直に起きて夜空を仰ぎ見た。確かに、かなり明るい星が飛んでいたが、何彗星なのか聞かないままだった。名前を聞いてもすぐ忘れるから同じか。
(追記)昨日帰って来た連れ合いが教えてくれた。ペルセウス座流星群。彗星やのうて流星。そういえば「ペルセウス流星群」と言っていた気がする。老人のええかげんな耳と勘違いが間違いを生じさせるのだ。反省。
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by rurou-no | 2015-08-20 14:26 | 地域

くさめ争い選挙結果

タイトル(「く」から)は別の語にするつもりだったが、昨日(14日)投開票が行なわれた串本町の議会選挙に意外な結果が出たので、それを取り上げることにした。ちなみに投票率は76%だった。

世の中には選挙になると俄然元気が出たり、急に愛想が良くなったりする手合いが多いのは何やろか?とわかってはいても、相容れない違和感がある。
小生の場合は、社会的な問題に強い関心を持ってはいても、選挙で投票した候補が当選したためしがめったにないから、お祭り騒ぎを横目にますます白けていくのだ。

国政選挙、県知事選、県会議員選では、意中の候補者はいないため、「もっとも嫌じゃないのはだれか」を選ぶしかない。それが町レベルになると、日ごろ接することがあったり、同級生が出たりと、知らないわけではない連中が雁首を並べるゆえ、選挙結果もそれなりに気になる。

さて、今回の選挙、まず町長選は当初立候補を表明していた町議は病気で倒れ、前町長も告示直前に病気入院で断念した。泡沫候補と目されていたもう1人も、現町長の関係者に呼び出されたあと(又聞きなので真偽は不明)立候補を取り下げた。結果、現職が無投票で当選。
町長陣営の謀略説が流布するのは、流れからして無責任な町の噂として当然ありうるだろう。

一方、町議選は定数が3減で、15席に22人が立候補して乱立状態だった。
昨夜の開票時間中は激しい雷雨が続き、これは結果が荒れるな、と面白がってたらその通りになって、驚きと落胆が待っていた。当選したのは新人4人(1位、2位、6位、7位)と現職11人。

冒頭で「意外な結果」としたのは、落選した現職4人は、押しなべて「真面目に議員活動をしていた」と一定の評価をしていた人ばかりだったこと。逆に当選した中には、議会で一度も質問に立つことがなかったり、資質に問題があったりする議員がいる。こんな議員に票を入れる人がいるなんて、と思う議員も余裕で当選している。田舎の選挙は親戚の数が当落を左右するのか。

さらに仕事が出来ない役立たず(あちこちで聞いたから町民の一般的な認識だろう)、と有名だった新人が退職して間もないのに議員先生になった。やっぱり親戚が多いのか。
面識はないが、26歳の若者は残念ながら落選。そして今回も女性は立候補すらなかった。
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by rurou-no | 2013-04-15 13:51 | 地域

のし、のぃし、のんし

何年か前、言葉の語尾に「よ」や「よぅ」をつける話し方について書いたが、今一緒に仕事をしている人は語尾に「の」と「のぅ」を多用する。どちらもここら辺の一般的な使い方である。
ちなみに「よぅ」はタメ口っぽいニュアンスで、「のぅ」は少し改まった感じかもしれない。

上記の語尾は、どちらかというと町の中心部へいくほど使用頻度が高いような気がする。
その中心部から海を隔てた島のさらに東端に位置する地では、語尾は「のぅ」も使うが「のし」の方を多く耳にした記憶がある。なにしろ子どものころのことだから、たよりない。

「のし」を丁寧にすると、「のぃし」または「のんし」。
漁師町は言葉が荒いといわれるが、「~やのんし」なんてなんとものんびりした言葉ではないか。
使い方は「~だよね」という風に相手の話に対して肯定的に相槌を打つとき、「~やのんし」となる。
陽の当たる庭先で、手作業しながら世間話をしている姿が目に浮かぶようである。

もっとも「~やのし」なんて言い方をするのは、高齢者だけになってしまった。
言葉は生活とともにあり、変化していくものだ。懐古的になるつもりはないけど、「のし」「のんし」を語尾へつけるようなゆったりとした暮らし方は、もう望めなくなってしまったのか。

「のし」といえば、祝儀袋の右肩にあった「熨斗」も、近ごろあまり見かけない。昔は特別な場合に限らず、普段の付き合いのやりとりでも、印刷して簡略したものを使用するのが礼儀だったように思う。個人的には、さらに簡略化した「のし」とひらがなで書いたのが好きだった。右肩に「のし」と書き添えるだけで縁起物の熨斗鮑の代わりとなるなんて、どんだけ合理的なんやとツッコミを入れたくなる。互いに無理をしないで、なお且つ礼を欠かさない生活の知恵としてアイデアの勝利だ。

まだ都会での時間のほうが圧倒的に長いせいか、田舎の言葉も半端でええかげんにしか使いこなせていないし、「のぅ」や「のんし」も自分では使ったことがない。言葉は生活に根ざしている一方で土地にも根ざしているはずだから、だんだんと時間をかけて染まっていくのやろな。
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by rurou-no | 2012-10-27 11:27 | 地域

どんどん描いていく

7月下旬から休みなく仕事をしていて今日やっと休みになった。夏の盛り、からだに突き刺す光をまともに浴びて、休むこともままならない臨時の末端労働者はつらいよ。
そういえば、去年の12月から今年の3月までもそうだった。真冬の野外で寒い思いをした。

久しぶりにブログを更新しようとしたら、ログインできない。ありゃりゃ、とうとうつまはじきにされてしまったのかとあれこれ試してみて、パソコンの不具合であることが判明しなんとか侵入できた。

さて、と。この20日間、さまざまな出来事があった。
個人の日記だから極私的な一つを挙げると、黒田征太郎さんの健在ぶりを目にしたことであろう。

今月3日、新宮市で《中上健次没後20年 '12熊野大学夏期特別セミナー「ケンジアカデミア」公開講座》が開かれた。講座①文芸漫談「軽蔑」をめぐって 講座②ライブペインティング「ケンジに捧げるインプロビゼーション」の2本立て。

①は、いとうせいこうと奥泉光の2人。意外だった奥泉さんのファンキーキャラ全開爆裂トークは、小説とはひと味違った彼の面白さを発見した。2人とも中上ファンとして中上小説の読み方、解釈の仕方など披露し合い、下手な漫才なんかよりずっと笑える堪能な喋りであった。

そして疲れたからだを引きずって車で1時間、出かけた甲斐があったと思わせたのが黒田さん。「クロセイ」という記号で認識し(立ち回り先が重なるという意味で)身近な常に気になる存在だった。
いつものように「黒田です」と「ろ」にイントネーションのある自己紹介で「73年も生きてしまいました」と話し出した。

ひとしきり中上健次の思い出を語ったあと、からだを斜に構えて猛然と描き始めた。何かに突き動かされているかの勢いでどんどん描いていく。まさに真剣勝負を挑んでいる気迫で圧倒された。
小さな画用紙に40分で40枚。一気呵成で描き上げた。意識的かどうか、どの絵にもたくさんの目が描かれており、無数の目に見つめられた。クロセイ健在なり、や。
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by rurou-no | 2012-08-17 13:26 | 地域

やがて、そして今

連れ合いが図書館から借りてきた本の中に、『原発を拒み続けた和歌山の記録』 汐見文隆◆監修、「脱原発わかやま」編集委員会◆編 があった。
途中までしか読んでいないが、昭和40年代、関西電力が紀伊半島4町5ヶ所に原子力発電所を建設しようと画策したことに対して、20年以上に亘る地元住民の反対運動を記録したものである。

おかげで、紀伊半島には原発は一基もない。「今気がつけば和歌山県は沖縄県の次に原発に遠い県である」(本書より)。過疎に苦しむ漁村へ「地域振興」という名の札束攻撃にも屈することなく、粘り強い闘いで海、山、里の豊かな自然を守りぬいた地元紀州の人びとを誇りに思いたい。

40年以上も前から、原発の「安全神話」のペテンを見抜いていた、この地のおいやん、おばちゃんの慧眼に敬服する。
そのころ小生は京都に住んでいて、日高町や日置川町の反原発の闘いは伝え聞いていたが、古座町と那智勝浦町の動きまでは知らなかった。

もっぱら関心は「原発銀座」の若狭湾にあり、友人たちに「原発は福井県にあるけど、原発から近い京都も地元や。事故があったら真っ先にやられる。観光地の京都にだれも来なくなるで。放射能を浴びたくなかったら、とにかく遠くへ逃げなあかん」と繰り返し話していた。
それが、再稼動とは。

本の中で、市井の学者である宇治田一也さんのことが紹介されていた。宇治田さんは情報を収集して分析し独自に「宇治田理論」というものを打ち立てた。原発新設の必要性の根拠が崩れていることを明快に指摘したそうだ。未来を見据える確かな目を持った人だった。こういう人こそがもっと評価されてしかるべきだ。

宇治田さんのように地道な活動をしている人を知ると、自堕落な小生などは思わず気をつけして襟を正さなければ、と反省してしまう。
大勢の人の努力がやがて報われることもあり、あるいは報われないのもまた現実社会である。
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by rurou-no | 2012-07-06 15:42 | 地域

公方通り

この町の商店街、といっても繁華だったのはひと昔前のことで、今はご多分に漏れずシャッターと空き地ばかりが目立つ通りになってしまった。そこはかつて「東海岸通り」として、文字通り波が打ち寄せ潮風が当たる海沿いの道だった。その後、海岸が埋め立てられ海が遠くなってからは「商栄会通り」と名前を変えて、長く住民の消費生活を支えてきた。
その商栄会通りの中ほどで、十字に交差するのが「公方通り」である。

「公方」という由緒正しき名の由来を述べるには、歴男君になって歴史書をひもとく必要がある。
ここは古文書の勉強をしている小生の出番、なんて大層に構えなくても『串本町史・通史編』という強い味方があった。調べてみると、ふむふむ、なるほど、そういうことか、連れ合いから聞いていたとおりのことが書いてある。

  「徳川十四代将軍家茂は三度上洛して天皇に拝謁しているが、二度目の上洛の折
  海路をとり、将軍搭乗の軍艦が大島港へ投錨している。」
  「歴史書によると家茂が二度目の京都入りをしたのは、元治元年(1864)1月15日。
  家茂の乗った軍艦が大島に寄航したのは1月5日、入洛の10日前であった。」

一行は約500人。300人を見越して受け入れの準備していたところ500人もの人数に、あわてて追加するなど大変な騒ぎだったらしい。宿は59軒に分宿したそうだ。
将軍家茂は大島の蓮生寺で休息し、その夜は串本の無量寺に宿泊した。このとき家茂が通ったことから「公方通り」と呼ばれるようになった。

家茂に大島と串本の視察を薦めたのは、時の軍艦奉行・勝海舟だった。海舟は前年の文久3年1月と6月の2度、串本の神田佐七家へ宿泊していることが、同家の古文書に残されている。
このころ坂本竜馬が海舟に弟子入りし、行動を共にしていた。とすると竜馬も串本へ来ていたかもしれないが、もちろん下っ端の名前は記録にない。

家茂は13歳で将軍となり21歳で病死した。そして跡を継いだ慶喜の代で徳川幕府は終焉する。
こういう風に違った角度から歴史を眺めるのもまた趣向である。
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by rurou-no | 2012-06-25 14:00 | 地域

テキ

ビーフ・ステーキを略してビフテキ、それをさらに略したのがテキ、って今日のタイトルとは関係なし。
方言続きになるが、「て」でふと思いついた「テキ」。30数年ぶりにUターンして、耳に入ってくる懐かしい言葉の中で、とりわけ印象的だったのが「てきゃよぅ」だった。「彼は」という意味である。

その場にいない共通の知人のことを「テキ」という言い方がユニークだ。そういえばむかし、おいさんらがそんな風に言ってたなぁ、と思い出した。語源はどこにあるのか判らないけど、「てき」と聞けば「敵」という漢字を連想してしまうから、子ども心に言葉の奇妙さ、不思議さを面白がっていた。

方言は食卓でもよく話題に上る。連れ合いは地元のおばさんや、ばあさんを相手に商売してるから、喋る言葉はバリバリのネイティブ串本弁。一方、小生はフランス生まれの京都育ち(ウソ)なので、雅でイケズな京ことばに気さくで抜け目ない大阪弁をブレンドした言葉を使う。よって会話不能になることがしばしばある(というのもウソ)。

前にここで、大島にある3つの集落ごと話し言葉が違っていることを書いたが、対岸の串本との違いを比較してみると、以下のような具合だ。

「何してるの」 → 「何しやるんど」(串本)、「何しやるんない」(大島)、「何しやるんね」(樫野・目上に対して)、「何しやるんな」(樫野・目下に対して)
「~しようか」 → 「~するこ」(串本)、「~するかい」(大島)、「~するけ」(樫野・目上に)、「~するか」(樫野・目下に)

樫野では敬語が健在だ。語尾の「ぇ」と「ぁ」で使い分けているのかと思うと、そうでもなさそうだ。たとえば、「早くして」と急かす場合に、串本は「はよせんこ」となるが、樫野は「はよしやんし」(目上に)、「はよせぇ」(目下に)という。

だいたい分かってもらったと思うが、漁師ことばがベースにあって荒っぽい串本弁を駆使する連れ合いと、上品さが身上である小生の会話は、なかなかスリリングで愉快なものである。
こういうときは「あがばっかしや」と突っ込みが入ることになっている。
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by rurou-no | 2012-06-13 13:44 | 地域


一瞬を、永遠に
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