江戸時代の浮世絵師として誰もが最初に思い浮かべるのは
喜多川歌麿 だろう。
蔦屋重三郎 のプロデュースで出した〈大首絵〉の美人画が大ヒットして一躍人気画家となる。
美人画といえば全身を描くのが通例であった当時、顔をクローズアップした絵は江戸の人々の
度肝を抜き、飛ぶように売れたという。いわばブロマイドのはしりのようなもの。
モデルとなったのは吉原の花魁や岡場所の遊女、そして茶屋の娘などであった。
絵に描かれた娘の姿をひと目見ようと、男たちが押しかけて茶屋は大繁盛したそうだ。
それを知った他の茶屋の娘から売り込みが凄かったというから、商売人はしたたかである。
また歌麿は〈春画〉でも才を発揮し、その代名詞となるほど数多くの傑出した作品を描いた。
「吉原細見」 というガイドブックを出す弱小書店・出版社に過ぎなかった蔦屋は、歌麿を売り
出すために仕掛けたアイデアが大当たりしたことに気を良くして、〈雲母刷り〉の美人画を出す
などだんだんと華美になっていった。時は〈寛政〉である。
いつの世でも急激に成長した新興勢力・ベンチャー・ビジネスは、既得権益を持つ他の商人
たちの嫉妬の対象となり、足を引っ張られる。出る杭は打たれるのだ。
保守派クーデターによって失脚した田沼意次のバブル時代、その後を受けた松平定信による
《寛政の改革》の風俗取締りに引っ掛かった。
山東京伝 の〈黄表紙・洒落本〉が目を付けられ、
出版元である蔦屋が京伝とともに処罰されたのである。
一方、売れっ子となった歌麿は世話になった蔦重から離れ、好条件を提示する他の出版社に
鞍替えしてしまった。歌麿に逃げられた蔦重は、超大型新人絵師を発掘して再起を図る。
〈役者絵〉の
写楽 の登場である。僅か10ヶ月で137点の錦絵を残して姿を消した謎の絵師。