子どもの頃、牛の世話と一緒に 鶏の世話もしていた。
これも昼間は放し飼いで、夜になると鶏小屋へ入れる。自家消費分の卵は、
全て賄っていた。そして卵を産まなくなると ツブして食べる。
「きょうは鶏ツブすさか、あの卵産まんよになったの つかんでごいし。」
雛から育てているから 可愛い鶏ばかりである。中には特に気に入っているのも
あったりして、それを殺したくないばかりに わざと違うのを捕まえて持っていく。
それでもすぐにバレてしまう。
「これとちゃうがえ、あれやて。」 「そんでもあれ時々産むさけ、置いとこらい。」
そうして命乞いが通じるのも1回きりで、次にはツブさなければならない。
首を落として、血抜きをする。熱湯をかけて、毛をむしる。この毛をむしるのが子ども
の仕事だ。毎日餌をやって育てていた 鶏の毛を1枚1枚むしり取っていく。
鶏の命がそこにあり、それを食べるのである。
魚も ついさっきまで海の中にいた、まだ動いているのを料理して食べてきた。
道具を使うようになって、ある意味で 自然界の食物連鎖、弱肉強食の頂点に立って
いる人間は、自らが生きていく為には さまざまな生き物の命を 食べ続けていくのだ。
そうした、他の生き物の命をいただくこと のリアリティーが失われた現代は、不幸な
時代と云わざるを得ない。人の命に対する想像力すら なくなってきているから。