先週は午前も午後も所用があって、投稿は休みにした。
この2週間は、週末ごと台風21号、22号がやってきて散々だった。それでなくても風が強い岬の台地では、雨戸を閉め切ってじっとしているしか手立てはない。
21号の時は2時間の停電、22号では断続的に7回も停電になった。「備えあれば患いなし」とはいかないもので、前触れもなくいきなり真っ暗になるとやっぱり慌てる。
秋台風が去った31日、季節は冬になった。といっても日が差すと暑い南紀では、長袖のダウンと半袖Tシャツ姿が同居することになる。それぞれの体感温度の違いもあろう。若いころ薄着をたしなめてくれた大人の心遣いがわかるようになってきた。
先月、熊谷達也『希望の海 仙河海叙景』を読んだ。9編からなる連作短編集で、読み始めてすぐ、これは 佐藤泰志『海炭市叙景』へのオマージュやな、と感じた。だんだん読み進めていくと、井上光晴『明日ー1945年8月8日・長崎』、映画では黒木和雄監督『TOMORROW 明日』へのオマージュにもなっていることに気が付いた。
「その日、その時」まで、確かにあったどこにでもある暮らしが突然断ち切られる。さまざまな事情を抱えながらもなんとか折り合いをつけながら市井に生きる、なにげない日常を切り取って、一人ひとりの人物を丁寧に描く手法は三つの作品に共通している。
東北大震災に遭って、積極的に発信した人や沈黙を貫いた人など、それぞれの立場でそれぞれの振舞いがあった。『希望の海』も、気仙沼市と思われる地方都市が舞台となっている現代小説ゆえに、震災は避けて通れない。
9編のうち最後の2編は「その後」の話で、『ラッツォクの灯』は出色だった。
震災の情報はおもに新聞記事から入手していたが、その新聞以上に、また他の震災関連の小説とも違って、この小説はそこに住む人びとの息遣いが生々しく伝わってきた。おそらく作家自身がその街と人を、肌感覚で知っているからではないか。
さらに『海炭市叙景』への敬意を忘れず、同じ位置と目線を持っていることだ。
そんなこんなで、今回の表題となった。
現実の出来事を報道する新聞記事やテレビの映像からは伝わらないものが、小説という形で伝わることもある。事実と真実あるいは本質の違い、見えている現象とその裏側にある見えないもの、主張する声と発せられない声、そしてとどかぬ思い、なんてことをつらつら考えさせられた。