東北の大地震をきっかけに、「てんでんこ」ということばがキーワードとして広まるようになった。災害のときは、めいめいが自分の身を守るために素早い行動を促す意味で使われる。この辺りでいう「てんで」とほぼ同じだと理解している。
朝日新聞の連載企画記事「てんでんこ」は、あの地震のとき、地震のあと、そこで何があったのか、その後どう行動したのか、何がどう変わったのか等々、住民に寄り添った記事は注目に値する。中でも、すこし前に掲載された「音楽の力」が心を打った。
音楽は、隙間風に震えて風邪をひきそうになった心の隙間を埋め、冷えて弱った心を温める蒲団の役割も果たしてくれる。それまで聴いてきた音楽がその人の個人史と重なり、また新しく聴いた音楽は、新たに書き加えられる。人びとの心が荒んでいるときほど音楽は力を発揮するし、趣味嗜好を超えたところで人の心を救う力を秘めている。
前回触れた映画でも、印象に残ったのは映画そのものよりも音楽の方だった。ミュージシャン志望の青年が雑貨店の前で吹くハーモニカのメロディが胸に染み入ってきた。その音楽が物語の核の一つとなるのだが、女性歌手が歌い出すと禿頭爺は太鼓の革になって感情を乱打された(ちょうど祭りの時期、獅子舞が荒獅子を舞うときの太鼓や)。
さらに、彼女のダンスにも魅せられた。確かな表現力に支えられたダンスだったからこそ、シルエットでもいいから身体の線の動きをもっと見たかった(監督は風になびくドレスを見せたかったのだろうが)。
あれっ、音楽から離れてしまった。要は表現されたものこそが人の感情を揺さぶり、心の栄養になるのだということ。からだの栄養となる食べ物と同じで、人間にとって必要不可欠のものなのだ。それは例えば絵でもいいし、文章でもいい。
月に1回だけ新聞で読める、石牟礼道子さんの『魂の秘境から』は、なんて美しい文章なんや、と心が洗われる思いで読んでいる。一部抜き書きさせてもらうと、「海が汚染されるということは、環境問題にとどまるものではない。それは太古からの命が連なるところ、数限りない生類と同化したご先祖さまの魂のよりどころが破壊されるということであり、わたしたちの魂が還りゆくところを失うということである。」
こうしたものに包まれて歳を重ねてきた。