《爆発で耳を吹き飛ばされた男が路上で探し物をしている。見かねた女性が「耳はあきらめて逃げて」と言うと、男は「耳にはさんでいたタバコを探しているんだ!」》
民族と宗教が混在しながらも、隣人として親しくしていた者同士が殺し合う悲劇は、「民族主義」という政治的イデオロギーが扇動した。わが国でも近ごろ流行っているやっかいなシロモノだ。
その舞台となったのが、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボである。第2次世界大戦後最大の規模となったボスニア紛争の「サラエボ包囲戦」は4年近く続いた。
冒頭は、その包囲戦下ではやったジョークだという。誰だったか、落語のマクラで話していたのを聞いたことがある。悲惨な状況やのに思わず声に出して笑ってしまう。
月2回届く日曜版『グローブ』(2月7日付)の特集は「笑いの力」だった。
命が危険にさらされる極限状態の中で、ユーモアを力にして生き延びた人びとがいた。
《サラエボはやせた人ばかりだ。彼らなら最新のダイエット法について本が書ける》《読者はレーニンの本を手放せるだろうか?去年の冬、レーニンの本がよく燃えることがわかったからだ》
マクラで思い出した落語の 『首提灯』 は、シュールでブラックな一席やった。
上方落語では酔っ払いが道具屋で仕込み杖を買って、夜中にやってきた泥棒の首を皮一枚残して切ってしまう。江戸落語では酔っ払った町人に馬鹿にされた武士が、町人の首を切り落としてしまう。首がおかしな方を向いたり、ズレたりするので切られたことに気づくのだが、首が胴体から離れてもちゃんと生きているところが落語たるゆえん。どぶに転がり落ちた首を探す様は滑稽で、火事騒ぎの中、首を提灯のように前にかざして走っていく。
笑いの力は疑うべくもないが、ユーモアを解するには知性が求められる。
そこで絶望的になるのは、日々中国化していくこの国の政治だ。行き着く先は3代目つながりで気心が知れる北の体制か。アメリカと中国の悪いところばかり真似て窮屈でかなゎん。
頭が悪いから人の言うことが理解できないので、聞く耳を持たない。自分の思い込みだけが正しいと勘違いしている。相手を攻撃する口だけは達者。品位に欠ける。「寛容」という言葉を知らない。等々。連中を見てるとレベルの低さに唖然とするばかりなのだが、どうすりゃいいのさ。