このあいだまで解読していた古文書は某大名家の興亡の記録だったが、合戦の様子を事細かに書き残しており、どこで見てたんやと突っ込みを入れながら、なかなかに楽しい作業だった。
いわゆる軍記物の類で、声に出して読むと講釈師の気分が味わえるというもの。
「講釈師、見てきたような嘘をつき」やね。
同じように「活動屋、見てきたような嘘をつき」という言い方も成立するのではないか。
歴史的な出来事を題材にしていても、映画はあくまでも作り物であって事実とは違う。
いわば、いかに上手に嘘をつくかが問われるのだ。そこを勘違いされると困ったことになる。
『海難1890』を見てきた。日ごろ映画をよく見る人には、何の驚きもなく平板でつまらん映画やった、というのがおおむね共通した感想であると思う。一方、話題作しか見ない人には、キーワードの「真心」に感動する自分に十分酔えるものだったかもしれない。映画をどう見るかは自由や。
では、ネタにされた側の立場はどうか?他人事として一般論で話せないので直截的な物言いになってしまうが、この映画に侮辱されたような心持ちだ。善意という名の悪意すら感じた。
あくまでも禿頭ジジイの受け取り方であって、樫野の人にも様々な感想があるはず。
映画の中で、トルコの軍艦が樫野の磯で座礁し乗組員を樫野の人たちが助けた、戦時下のイランに取り残された日本人をトルコ航空機が救出した、この2点だけは事実である。
軍艦エルトゥールル号が座礁するまでのシーンはCGとスタジオ撮影のため、ありきたりの描写になってしまったが、ここは退屈でも我慢して見るところ。
樫野編。ふだんから漁師は朝が早いので夜も早い。嵐の夜は雨戸を閉てじっとしている。半農半漁の倹しい暮らしだ。酒を飲んで騒ぐなんて特別な日に限っていた。そんな漁民の生活を愚弄するような描き方はどういう意図があってのことなのか。
総出の救助や手当て、貧しい暮らしにあっても食べ物や着る物を惜しみなく与える無私の行為は、海の民としての本能的なものだった。それ以前から難破する船がたびたびあって、ずっとそうしてきた。「当たり前のことをしただけ」と誰もが口を揃えた。たとえ外国人であっても同胞であり、海難は自分の身に起こったことだった。そうでなければ、200余人の遺体を40メートルの断崖を引き揚げて手厚く葬るなんてことはできない。「美談」などの通俗的な言葉で括れないのだ。
そこにありもしなかった遊郭が出てくるのも、了見が理解できない。映画に必要なかった。
当時の記録で樫野は59戸303人の僻辺の地である。「村」ですらない離島の集落だった。
山道を8キロ歩いた大島に遊郭が出来たのは16年後の1906年のこと(前年12月和歌山県議会で公娼制度を設置)。風待ち潮がかりで寄港する商船の商人や船乗り相手の娼家だった。
郷土史家の濵健吾さん(故人)によると、3代目おゆきさんが大島のサンベ(三兵衛)の家へ奉公に来たのは1892年の15歳の時。1890年は2代目と3代目おゆきさんとの空白期に当たる。
串本町内にオープンセットを組んで撮影したと聞くが、この地の風や光、時化の海などスクリーンからまったく伝わってこなくて、全部スタジオで撮ったように見えた。現地ロケはその地の気候風土を映しとらないと意味がない。役者の科白も含めて、どこか別の土地の話みたいだった。
残念だったのはテヘラン空港の救出編。実は、これがこの映画の山場になるやろと思っていた。
空爆下、生死の保障がない中にあって自分を救い出してくれる席を、なぜ譲れたのか?
これは樫野の漁民の、考えるより先にからだが動いていた、とは対極の理知的な行動である。
どのように説得され、論理的な判断ができたのか、その言葉を聞きたかった。
言葉のプロとしての脚本家の腕の見せ所だ。言葉の力に涙腺が緩むかもしれないと思っていたのに、あれっと肩透かしをくらってしまった。納得できる説明がないまま、あの日本人を助けましょう、そうしましょう、ってあんまりや。それじゃ、危険な陸路を脱出してくれたトルコの人たちに失礼やないか。テキトーにもほどがある。
日曜日に見た冗長な映画のことをつらつら書いているうち、いつもの倍の分量になってしもた。
映画は下手な嘘ばかりだったせいで、ご先祖さんの行いまで嘘っぽくされてしまった。
いったい監督は何をしたかったのやら?こんな質の低いものしか作れないなんて恥を知るべし。
やっぱり嘘は上手についてもらわないと。