3ヶ月続けて月見ネタとはつまらんが、特別な月だったことを記録しておくためによしとする。
昨夜の月は、一生に一度だけしか見られない「後の十三夜」だった。
古くから名月とされていた旧暦8月15日(十五夜)と9月13日(十三夜)の月、その十三夜を2度も見られるのが閏9月がある年。前回は1843年(江戸時代・天保14年)だったから、実に171年ぶりというわけだ。以上、昨日連れ合いから聞いて知った。
いつものように月明かりの下、夜道を歩く。足元を照らす懐中電灯がなくても十分に明るい。歩きながら子どものころを思い出していた。当時は街灯もなく、夜ともなれば真の闇だった。ゆえに月夜の明るさは際立っていた。子ども心に「昼間みたい」と、不思議な高揚感のようなものを感じていたのを覚えている。
ともあれ、月暦を意識していなければナンノコッチャと意味不明であろう。「一生に一度」「171年ぶり」と騒いだところで月は月で変わりはなし。それでも月とともに暮らしを営んでいた時代が確かにあって、月へ供え物をしたり、月へ祈りを捧げたりする習慣を、私たちの先祖は生活の中に組み込んでいた。そこに多くの月物語も生まれた。そうした豊かな振る舞いを畏怖したい。
そんな秋の夜長に読んだのが、村田喜代子 『光線』 。短編集で表題作は放射線治療する癌患者の話だった。このところ、田口ランディ 『キュア』 、熊谷達也 『虹色にランドスケープ』 と癌患者が出てくる小説が続いた。例によって連れ合いが図書館から借りてくる本を横から読んでいるので、たまたまテーマが重なっただけだと思う。
その中にあった 『山の人生』 が興味深かった。宮崎県の山村が舞台になっていて、山深い村を訪ねた主人公が「追原」「人首」「不帰之」の地名への疑問から、老人がある年齢になると山の上へ追いやられる「爺捨て」が行われていた話を聞く。すると同行者も、中国雲南省の奥地では爺さんが60歳になったら村を出て行く決まりがある、という話を始める。
『楢山節考』 は深沢七郎の小説で、姥捨て伝説が題材になっていた。今村昌平監督の同タイトルの映画も見た。雲南省の伝承に倣うと、不肖迂生も「爺捨て」される年齢だ。もはや自分がそんな立場にあるなんて、なんとも痛快な気分ではないか。