メジロって鳥やないか、と言われればその通りなのだが、今回は食べながら思いついた魚の話。
漁師をしている弟から、メジロの差し入れがあった。もちろん獲れ立てだから刺身でいただいた。
翌日は残った分をづけにして丼で。あまりの美味さに、日ごろご飯はちゃわんに一杯しか食べない小生が、丼飯ニ杯も食べてしまった。
そこで今回のタイトルを「メジロのづけ」にするつもりだったけど「づけ」は前にも使ったので、「メジロ」だけのタイトルでもよかったが、「ろ」のしりとりは最近あったばかりだから、苦し紛れに「出世魚」を後へ付けた。と、しょうもないところで右往左往してしまった。
ちなみにメジロは、ツバス→ハマチ→メジロ→ブリの順番に成長する。
成長とともに名前を変えていくのは、われわれ人間も日本では明治時代初期までそうだった。
現代も芸能の世界にその慣習が受け継がれている。芸の上達とともに師匠の名や親の名を継ぐ「襲名」がそれだ。「名は体を表す」といわれるように、襲名によって芸が一段と伸びる人がいるくらいだから、たかが名前でも疎かに出来ない。周りの見方や態度も変わるしね。
一般人なら、社会的な地位や会社での肩書きが、それに相当するのか。ある種の役割を自覚することで、人は成長していくものなのだろう。地位や肩書きに見合ったものが自然と身に付いてくるようだ。もっとも名刺を肩書きで埋め尽くすような手合いは、中身のなさを肩書きに頼っているだけで本人の人格とは何ら関係がない。本末転倒というものだ。
メジロに戻ろう。づけを食べながら、「最後の晩餐」というのを思っていた。死ぬ前の最後の食事は何を食べたいか?との問いかけ。「メジロのづけ」でもいいなぁと。
はぎのなます(イシダイの刺身)を酢味噌で、とか、特上の鰻丼とか、おいしい手打ち蕎麦とか、チラシ寿司がええなぁとか、小豆を入れた玄米ごはんだけで十分とか、こんなことを考えていると食い意地が張っている本性がバレてしまいそうでみっともない。
そこで気がついた。最後の食事は何を食べるかより、だれと食べるかのほうが重要なことに。
もともと粗食を旨とするをよしとしてきた小生である。ごはんとつけもんだけで何ら不足はない。