「離見の見」のことは前にも書いたと思うが、身近に置いてあることばは何度引用してもよかろう。
能楽師・世阿弥の教えは、舞台へ上るときだけでなく日常でも常に意識するべく心がけている。
自分の姿を離れたところから客観的に見る目を持ちなさい、というのが「離見の見」の教えだと理解している。弟子たちへは、見所(客席)から舞台上の己の姿を見なさい、と。
舞の師からも同じことを習った。基本である立ち方を教わっていたときのことを思い出した。「目線はどこにおけばいいのでしょうか?」と問うと、師は「ずーっと遠くを見なさい」「壁があるんですけど」と小生、「壁を突き抜けてはるかかなたを見るのです」。「地球を一周して自分の後頭部を見なさい」との教えは忘れない。
これは「目前心後」。目は前を見ていても心は後においておくように。自分の後ろ姿を見なさい、常に後ろ姿を見ていないと卑しさが出たときに気付かない、というのとも重なる部分がある。
重松清『きみ去りしのち』の中で、ハワイ島のヒロで海にかかるいくつもの虹を見た旅行者は、次の日はヴォルケーノへ行くとホテルのフロントの男に話すと「うまくすれば、ムーンボウ(夜の虹)が見えるかもしれない」と教えてもらう。<そしてかれは、自分の目の前の空気を両手ですくうしぐさをして、「ここにだって虹はあるんだ」と笑った。「わかるかな、虹の色はどこにだってあるんだよ」>
とかく私たちは即物的なものに支配されることに慣れてしまって、目の前のにあるものしか見なくなってはいまいか。さらに見えているはずのものですら見えなくなっているのではないのか。つまるところ視野が狭くなり近視眼的にしか物事を考えられなくなってしまった。
今日は、欲に目が眩んで現実が見えなくなり思考停止状態となっているみっともない連中のことを、つらつらとしつこく書くつもりだったが、小説の引用をしているうちにアホらしなってきた。
後ろ姿どころか顔に卑しさが滲み出ている連中どもは、自省することも知らないまま世の中にのさばっていくのだろうなぁ、と考えるとやりきれない。
小説とはいえ、ホテルのフロントマンの見識に学ばねば。爪の垢を煎じて飲ませたい。