一所不住



公方通り

この町の商店街、といっても繁華だったのはひと昔前のことで、今はご多分に漏れずシャッターと空き地ばかりが目立つ通りになってしまった。そこはかつて「東海岸通り」として、文字通り波が打ち寄せ潮風が当たる海沿いの道だった。その後、海岸が埋め立てられ海が遠くなってからは「商栄会通り」と名前を変えて、長く住民の消費生活を支えてきた。
その商栄会通りの中ほどで、十字に交差するのが「公方通り」である。

「公方」という由緒正しき名の由来を述べるには、歴男君になって歴史書をひもとく必要がある。
ここは古文書の勉強をしている小生の出番、なんて大層に構えなくても『串本町史・通史編』という強い味方があった。調べてみると、ふむふむ、なるほど、そういうことか、連れ合いから聞いていたとおりのことが書いてある。

  「徳川十四代将軍家茂は三度上洛して天皇に拝謁しているが、二度目の上洛の折
  海路をとり、将軍搭乗の軍艦が大島港へ投錨している。」
  「歴史書によると家茂が二度目の京都入りをしたのは、元治元年(1864)1月15日。
  家茂の乗った軍艦が大島に寄航したのは1月5日、入洛の10日前であった。」

一行は約500人。300人を見越して受け入れの準備していたところ500人もの人数に、あわてて追加するなど大変な騒ぎだったらしい。宿は59軒に分宿したそうだ。
将軍家茂は大島の蓮生寺で休息し、その夜は串本の無量寺に宿泊した。このとき家茂が通ったことから「公方通り」と呼ばれるようになった。

家茂に大島と串本の視察を薦めたのは、時の軍艦奉行・勝海舟だった。海舟は前年の文久3年1月と6月の2度、串本の神田佐七家へ宿泊していることが、同家の古文書に残されている。
このころ坂本竜馬が海舟に弟子入りし、行動を共にしていた。とすると竜馬も串本へ来ていたかもしれないが、もちろん下っ端の名前は記録にない。

家茂は13歳で将軍となり21歳で病死した。そして跡を継いだ慶喜の代で徳川幕府は終焉する。
こういう風に違った角度から歴史を眺めるのもまた趣向である。
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by rurou-no | 2012-06-25 14:00 | 地域
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