少し前、平安寿子『こっちへお入り』を連れ合いから借りて読んだ。
33歳の独身OLが落語教室の発表会を覘いたことから落語の面白さにはまり、自ら発表会の高座へ上がるようになる顛末がストーリーとなっていた。
取り上げているのが江戸落語なので、上方落語ファンとしてはいささか物足りなさは否めないものの、子どものころテレビで馴染んでいたから江戸っ子の粋を認めるにやぶさかでない。
本の中に「転失気」が出ていた。手元に件の本がないのでどんな風に出ていたのか前後関係はあやふやだが、東京でもこの噺をやるんやなぁ、とそのとき思った。
どこで聴いたのか、だれが演っていたのかも忘れたけど、寄席でたった1回聴いただけやのに「転失気」は覚えていた。
ある寺の和尚がからだの具合が悪くて往診を頼んだところ、診察を済ませた医者が「下腹が張っているようですが転失気はございますかな?」と訊ねた。和尚は「てんしき」の意味を知らなかったが知らないとも言えず、なんとかその場を誤魔化した。
気になって仕方がない和尚は、小坊主の珍念に「てんしき」とは何か、聞いて借りてくるように言い付ける。珍念は花屋で尋ねると「床の間に置いてあったのを土産に持たせた」とか「棚の上に乗せてあったのを落として割ってしもた」という。次の豆腐屋では「味噌汁に入れて食べてしもた」と。
訳がわからなくなって直接医者に聞いたところ、「中国の古い医学書『傷寒論』に出ている」と教えてくれた。和尚も知らないことに気付いた珍念は、「てんしきとは盃のことでございます」と嘘をつく。和尚はもっともらしく「酒を呑む器すなわち呑酒器(てんしき)じゃ」と諭す。
次の日、和尚は医者の前で「テンシキをお見せします」と自慢の盃を並べた。医者は「はて、寺ではテンシキは盃のことでございますか。さぞかし古い時代からテンシキと呼んでおられたのでございましょうな?」「えぇ、そらぁもぉ、奈良・平安時代から」 でサゲとなる。