「レジスタンス」なんていつの言葉や、と突っ込まれそうだが現代に生きる語である。
レジスタンス=抵抗運動、地下活動。主に第二次世界大戦中、大戦後、ヨーロッパを中心とした国々で盛んに行なわれた。もちろん現在も世界各国でレジスタンスが行なわれている。
例えば、隣国の中国では資本主義大国となった今でも市民生活に自由が制限され、民主化運動は命がけの地下活動となる。またチベット自治区や新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区における民族独立運動も烈しさを増している。
今年になって北アフリカや中近東であった民衆革命は、独裁者への抵抗運動の勝利といえよう。
「レジスタンス」で真っ先に思い浮かべるのは、ポーランド映画「地下水道」(1956年)と「灰とダイヤモンド」(58年)で、自身も反ナチ・レジスタンスの闘士であったアンジェイ・ワイダ監督の作品だ。
ポーランドは東欧と西欧に挟まれた中欧の位置にあり、第二次大戦中はナチス・ドイツとソ連に侵略された。2本の映画はこうした歴史におけるレジスタンスをテーマとしている。
さて、近代文明社会が崩壊寸前にあるわが国で、レジスタンスなる言葉は死語だろうか。
東京と大阪でファシスト体質の知事が権力を玩具のようにもてあそび、それを多数の都民や府民が支持している。大丈夫かい、北朝鮮を笑えないぞ。
政府は、東電福島第一原発の事故がいまだに進行中で、収束の見通しすら立っていないにもかかわらず、停止中の九電玄海原発を再稼動させようとしている。
垂れ流す放射能を止めることすらできないのに、何が「安全」なのか。
人命より経済を優先する発想と加害者意識の希薄さは絶望的だ。
「ただちに影響はない」放射線被害も5年経ち10年経ったころ、被害者は爆発的に増えるかもしれない。それも国内に留まらず、世界中へ深刻な影響をもたらす可能性がある。
外国の人からみたら私たち一人ひとりが加害者となるのだ。そこで加害者責任として最初にしなければならないのは、国内にあるすべての原発を止めることではないか。そして原発のない社会を一から築き直すことだ。それが最低限の責任やろが。