数日前、義父の100か日法要が串本町の無量寺であった。
ここには江戸中期に活躍した画家、円山応挙と長澤芦雪の作品を収蔵・展示する「串本応挙芦雪館」があり、とりわけ芦雪のコレクションは国内でも有数の美術館だと言われている。
昨年10月、寺の本堂に応挙と芦雪の障壁画55面がデジタル再製され、もともとあった形で本堂内に再現された。複製画とはいえ、最新の技術によるスキャナーと印刷機で製作された襖絵は、並べて見比べない限り本物と見まがうばかりの完成度で、一方だけを見せられたら素人にはその違いは分からないだろう。
この再製障壁画は重要文化財の影武者のようなもの。贋物といってもこれだけの絵をいつでも目にすることができるようになるのは、檀家や一般町民にとって思わぬ贈り物になると喜んでいたが寺は公開するどころか逆に門を閉じてしまった。どうやら応挙芦雪館の券を購入した人だけが見学可能らしい。
おかしいやないか、寺は檀家が支えているのであっていつでも自由に出入りできる場所のはずである。と住職や総代の狭小な度量と手前勝手な振る舞いに、檀家でないにしてもいささか納得のいかない思いがあった。
葬式も寺でやらなくなったと聞いていたのに、法事をしてもらえるとは意外だった。
芦雪の「虎図」と「龍図」に囲まれた祭壇の前で住職が経を読み、私たち親族は一段下がった廊下に椅子を置いて控えた。
どういう形にしろ、少なくとも再製障壁画が檀家の目に触れる機会を設けるのは当然だ。
この複製画にどれほどの値打ちがあるのか、それは見る人それぞれが判断すればいい。
西洋画で古い歴史のある贋作は、一見見分けがつかないほど精巧な作品にはそれなりの価値を与えるべきだと考える。コレクターでも騙される物は、それはそれで立派な作品と認めてもいいではないかと。
無量寺の障壁画については本物を何度も見ているせいか、あまり有難みを感じないのは贅沢な悩みで勿体ない。ここらへんが贋物の限界というところか。